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1983年、ファミコン発売直前のころに佐藤辰男がしていたことは?【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第18回

5-4 1983年1月ラスベガスにて

 ぼくが昔働いていた『玩具通信』の事業で重要なもののひとつに、“業界海外視察団”というのがあって、ニューヨークとニュルンベルクのトイフェアは当時編集長であった辰巳敦子さんが引率していた。

 英語が流暢に話せる敦子さんは海外の業界に顔が広かったから、業界のお偉方の評価は高かった。話は飛ぶが、90年代にアメコミ界にさっそうと登場した『SPAWN』の翻訳出版権をメディアワークスが獲得したのも、ニューヨークのトイフェアで辰巳敦子さんが原作者のトッド・マクファーレンと知り合い、日本の出版権をぼくにつないでくれたのがきっかけだった。

 アメコミの翻訳出版は、小学館などがマーベルコミックスを根付かせるのに苦労していた時代だったから勇気がいったが、ちょうどフィギュアも日本に上陸し劇場映画の公開もあったから、奇跡のように本も売れ、シリーズは20巻ぐらいに及んだ。設立間もないメディアワークスにはありがたい出会いだった。

 トッドは、日本でコミックスが売れたことをことのほか喜び、映画化で来日したときにぼくにサイン入りのアイスホッケーのパックをプレゼントしてくれた。彼は確かカナダのアイスホッケーのプロチームのオーナーだった。

 さて、話を戻そう。TVゲームの時代になって、視察先に“CES(アメリカの家電見本市)”が加わった。家電製品に交じって、アタリ社など多数のTVゲーム関連の出展があるというので視察ツアーが組まれ、ぼくがツアーコンダクターに指名された。記憶が非常に曖昧なのだが、最初のツアーは、1982年の1月のラスベガスか6月のシカゴ(年2回開催だった)のどちらかで、参加者はトミー、エポック社、バンダイそれぞれの開発担当たちとの4人によるツアーとなった。

 この時点でのアタリの成長はすさまじく、『VCS』用のカートリッジでは『スペースインベーダー』に続き『アステロイド』、『パックマン』などが次々にヒットし、売り上げは1979年から1982年にかけ毎年ほぼ倍増の成長を示した。1982年の家庭用TVゲーム機の75%を『VCS』が占め、累計で1,100万台が出荷された、と『「アタリ社の失敗」を読む』(スコット・コーエン、ダイヤモンド社、1985年)にある。

 まだ29歳だったぼくはカメラをぶら下げ、会場とプレスルームを往復し、目いっぱい取材をし(というかゲームを遊び)、写真を撮り、大量のレポートを書いた記憶がある。初めてのCES会場は広大できらびやかで、圧倒された。

 スーツケースがパンパンになるほどのプレスキットや業界紙・誌を持ち帰り何週かに分けてアメリカ市場のレポートを書いた。折も折、1982年の年末はTVゲーム市場が過熱すると目されていたから、その年のうちに『玩具通信』主催の任天堂の山内溥社長の講演会が開かれることになって、ぼくはその前座として、アメリカ市場の様子をレポートした。会場は大阪・梅田の阪急百貨店の大きな広間だった。

 ぼくはアメリカのTVゲーム市場の成長の様子や、今後の市場予測、代表的なメーカーのハードとソフトのラインナップなどの話をした。ぼくは自分の話で精いっぱいで、山内溥社長がどんな話をされたかは覚えていない。が、ファミコン発売の前年であったから、来年発売されるゲーム機がどんなものになるかを話してくれたのではないかと思う。

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 ファミコン発売前の任天堂という会社は、トランプに花札、それから『ウルトラハンド』(スルスルと伸びて物がつかめる)や『ラブテスター』(男女の愛情度を測るおもちゃ)、『光線銃』のような商品を発売していた会社だったから、傍目からはおもちゃメーカーの仲間と見られていたが、自らはおもちゃ業界から距離を置いていた。

 バンダイの創業者・山科直治が1981年に日本玩具協会、見本市協会の会長になって、東京おもちゃショーの一般公開に踏み切ったとき、任天堂が出展するかどうかがひとつの焦点だったが、結局それはなかった。その後ファミコンが一世を風靡(ふうび)すると、任天堂の問屋組織だった初心会の仕切りで“任天堂スペースワールド”という展示会を独自に開催するようになった。

 『新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防』(相田洋/大墻敦、NHK出版、1997年)には、珍しく山内溥がおもちゃを引き合いに出して語る様子が描かれている。

 「玩具というのは本来アイデア商品なんです。ですから、飽きられたらおしまい。今年は売れたけれども翌年は駄目になる、ということなんかザラでして、商品寿命が短く浮き沈みの多い業界なんです。ですから、玩具メーカーは世界中にたくさんありますけれども、どこも中小企業ばかりで大きくなれないんです。アメリカの大きな玩具会社だって年商2,000億円までぐらいですからね。・・・ところが昭和50年代初めに“マイコン革命”が起きました。マイクロコンピューターが非常に安くなり、いろんな産業で使われるようになったのを見て、玩具産業でもおもちゃにマイコンを使うようになったんです。このとき初めて、ハードがあってたくさんのソフトがあるという道が開けてきたんですよ。それが、〇〇です」

 〇〇のところには当然ファミコンの文字が入るのだが、玩具業界の人々を相手にしたそのファミコン発売前の講演会では、「任天堂が来年発売する新しい家庭用TVゲームです」と語ったのではないかと勝手に推察する。

 タカラの創業者・佐藤安太がおもちゃのヒット地獄から“定番”への道を見つけたように、山内溥も“ハードとソフト”という関係のなかに、任天堂の未来を見出そうとしていたのだろう。花札、トランプは定番中の定番だが、その後のいろいろなアイデア商品は短命に終わった。

 やっと行きついた射撃場ビジネスもオイルショックのせいで、ボーリングブームのあとを追うようにあえなく潰えた。それを思えば、おもちゃ市場に対する批評的言辞は自分に返ってくる刃で、マイコン革命がもたらしたハードとソフトという新しいコンセプトは、持続的な企業の成長に資するものと、思えたに違いない。
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