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シリコンバレーから生まれた“ゲームの流れ”は、ついに日本に押し寄せた【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第17回

 再びジョブズの物語。

 1975年の初頭にインドから戻ってきたジョブズに、ブッシュネルが新しいゲームのアイデアを授けた。1976年にヒットした『ブレイクアウト』は、ブッシュネルがジョブズたちに命じて作らせた業務用ゲーム機だ。

 『プレイクアウト』と聞いて首をひねっていた人も、日本で『ブロック崩し』と呼ばれていたと言えばピンとくるかもしれない。アイデア自体は『ポン』の延長線上にあって、幾層にも重ねられたブロックのひとつにボールが接触すると跳ね返すのではなく、ブロックが消える。1人で遊べるのがみそだ。

 問題はゲームアイデアよりも、構成するIC(集積回路)の数を少なくすることだった。そこでブッシュネルはICの数が50個より少なければ700ドル、40個以下なら1,000ドルのボーナスを出すと約束し、これを4日で果たしジョブズはボーナスを獲得した。

 ICチップの数やボーナスの額は『「アタリ社の失敗」を読む』(スコット・コーエン、ダイヤモンド社、1985年)、『新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防』(相田洋/大墻敦、NHK出版、1997年)、『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン、講談社、2011年)の3書とも数字が違っている。ここでは『新・電子立国4』の数字を採用した。しかし、実際にこれを完成させたのは友だちのウォズニアックだった。

 スティーブ・ウォズニアックは1950年生まれ。数学が好きで13歳のときにはかなりのコンピュータの知識を習得していた。ウォズニアックが21歳のときに作った自作のコンピュータを見て5歳下のジョブズが感動し友だちになった。2人は家も近く、中学も高校も同じホームステッド校だった。

 当時ウォズニアックはカリフォルニア工科大学を卒業して地元のヒューレット・パッカード社に就職し、回路設計の技術者になっていた。夕食後は、アタリ社で夜に勤務しているジョブズを訪ね、2人でゲームに興じていたらしい。

 ブッシュネルもウォズニアックのことを知っていて、ジョブズにゲーム回路の設計を命じたら、友だちのウォズニアックにやらせるに違いないと踏んでいた、と『「アタリ社の失敗」を読む』に記されている。

 1975年にシリコンバレーに、コンピュータを自作するクラブが結成された。“ホーム・ブリュー・コンピュータクラブ”という、シリコンバレーならではのオタククラブだ。この第1回の会合にウォズニアックは参加し、マイクロプロセッサーの仕様書というものを見せられ、そこからスタンドアローンのコンピュータをデスクにおいて操作するイメージが浮かんだという。

 のちにジョブズはウォズニアックに誘われこの会に参加するようになるが、みんなが自作コンピュータの組み立てのために、はんだ付けで苦闘しているのを見て、「ボードにして完成品として売ればみんなはんだ付けから解放されるのに」とつぶやいたという。そして思いたって「完成品のボードを売る会社を作ろう」と提案してきた。それが始まりだったとウォズニアックは証言している。

 ここから先の『アップルⅠ』(1976年4月)そして、『アップルⅡ』(1977年6月)の開発秘話はあまりに有名だし、そこを解説するのはこの連載の意図から外れるので触れない。

 が、パーソナルコンピュータ『アップル』シリーズの誕生は、天才によるとんでもない発明品というわけではなく、シリコンバレーという環境のなかで、そして人と人の出会いのなかで、ある種の熟成を経て生まれるべくして生まれたと、これまでの経緯を見ればぼくにはそう思えるが、これを読んでいる読者のみなさんはいかがだろう?

 ウォズニアックの発明品はマニアのためのボードに過ぎなかったが、ジョブズはホームコンピュータという家庭向けの製品を構想し・税金や銀行預金残高の計算(表計算ソフト『VisiCalc』がディスクベースで発売されるのは1979年だ)や子どもの宿題にも使えるものにすべきだと主張した。

 「ジョブズはアタリでの経験を糧として、ビジネスやデザインに対する自分なりの方法を確立していった」と『スティーブ・ジョブズ』にある。つまりジョブズには、TVゲームからホームコンピュータのあるべき姿が想像できた。ヒューレット・パッカードの技術者であるウォズニアックには、むき出しのボードで十分だった。この2人の背景にあったアタリ的な心とヒューレット・パッカード的な技術が融合してこそ、Appleは成功への道を歩めたのではないかとぼくは推察する。

 2人は手元のささやかな資金でAppleを設立した。『アップルⅡ』に必要な製造資金は彼らの調達能力を超えていたから、ジョブズはノーラン・ブッシュネルに資金をおねだりに行く。そのあたりの経緯を『「アタリ社の失敗」を読む』は次のように書いている。

 「スティーブ・ジョブズはこうしたいきさつを(ただし、自分たちのコンピュータのいくつかの部品はアタリから盗んだものだということは除き)、ノーランに話した。彼らのコンピュータはアタリの『VCS』と同じ原理に基づいておりノーランは話に飛びつくはずだった。だが、ノーランはもう手一杯だった。代わりにアタリの最初の投資家であるドン・バレンタインを紹介してくれた。家庭用コンピュータという他の分野にビジネスを拡げる余裕はもうなかったのだ」

 同じ出来事を『スティーブ・ジョブズ』ではブッシュネルの語りで次のように記述している。

 「5万ドル出資してくれたら会社の3分の1をくれると言われました。断りましたよ。私は抜け目のない人間ですから。あの時のことを考えるのはなかなかに面白いものがありますよ。気持ちが落ち込んでいないときならね」

 ブッシュネルはつまり気持ちが落ち込んでいるときには、ジョブズの誘いになぜ乗らなかったのか猛烈に後悔したと言っているように聞こえる。

 それはともかく、バレンタインは、自ら出資する代わりにマーケティングと物流がわかり経営計画を策定できるパートナーとして、インテルのマーケティングを統率した経歴を持つマイク・マークラを紹介する。彼は自ら出資しただけでなく経営にも参画した。これが決定打となってAppleの成長が加速するのだ。

 シリコンバレーの誕生から始まるこの物語から、読者のみなさんがエウレカの連鎖を感じ取っていただけたのなら、うれしい。スタンフォード大学のフレデリック・ターマンがシリコンバレーに撒いた種が、さまざまな環境条件によって花開き、それがエウレカの連鎖となってここまで来た。

 シリコンバレーで育まれた産業育成のどの要素が欠けていても、アタリもAppleもなかったのではないか。アタリについてはその失敗ばかりが取りざたされるが、シリコンバレーからマイクロプロセッサーが生まれ、その結果生まれたアタリの『VCS』が、コンピュータが家庭に入っていく道筋を示しAppleを生んだとは、言い過ぎか。

 この流れはグローバルに拡大し、日本にも押し寄せた。

 アメリカからジュークボックスやピーナッツベンダー(むかしありました喫茶店に!)を輸入していたタイトーのエンジニアだった西角友宏(にしかどともひろ)が、アタリの『ブレイクアウト』をヒントに、業務用ゲーム機『スペースインベーダー』を開発した。『ブレイクアウト』の長方形のブロックを、インベーダーを模したキャラクターに変形させ、これが集団で上から攻めてくるという設定に変えた。

 1978年に発売されると、たちまち大ヒットとなる。アタリはこのライセンス供与を受けて『VCS』のカートリッジで販売した。これはミリオンセラーとなって、『VCS』の在庫の山を一掃しておつりが来た。アタリの1980年売り上げは前年の2倍の4億1,500万ドル、営業利益は5倍の7,700万ドルに達し、ワーナーグループ全体の3分の1の営業利益を稼ぐことになった。

 同じころ、ジュースの自動販売機、綿菓子の機械、中古の改造パチンコ台、メダルマシーン、ピンボールといった娯楽機器を扱い、失敗と成功を繰り返していた辻本憲三は、コインを投入して遊ぶ機械のレンタル業務の会社、アイ・アール・エム(現・カプコン)を1979年に設立、ちょうどインベーダーゲームが流行し始めた時期と重なった。ここがチャンスと辻本はタイトーに出向きライセンス契約を結んだ。そこからカプコンの急成長が始まった。

 1955年に、横浜の百貨店の屋上に木馬2台を設置し、アミューズメント事業に進出した中村製作所(その後のナムコ)の中村雅哉は、ブッシュネルが設立したアタリ・ジャパン(1973年)があっけなく失敗したものを引き受け、そのゲーム機のメンテナンスをするうちに自らビデオゲーム機事業に進出することになった。

 アタリが日本にやって来たころ、レーザークレー射撃場の事業を展開していた任天堂は、第1次石油ショック(1973年)の影響から倒産の危機に陥り、社長の山内溥は必死に次の事業を探していた。

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▲レーザークレー射撃場の様子。
 『ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち』(デイヴィット・シェフ著、篠原慎訳、KADOKAWA、1993年)によれば、1975年のある夜、家電メーカーの役員をしていた幼なじみと食事をしていて、その会話のなかで天啓を受ける。

 「半導体とマイクロプロセッサーがオフィスや家電製品に革命的な変化をもたらし、いまや値段も娯楽製品に利用できるほど安くなりつつある・・・アタリとかマグナボックスといった会社が家庭のテレビを使ってゲームができる装置を売り出している」

 そこで山内は、すでに取引のあったマグナボックスと交渉して、同社のビデオゲームシステムを日本で製造販売するライセンスを取得した。任天堂はマグナボックスの『オデッセイ』に、シューティングゲームが遊べる別売りの光線銃を供与する関係にあった。

 1977年に『カラーテレビゲーム6』と『カラーテレビゲーム15』を発売を発売し、これがヒットした任天堂は一息つく。さらにその先に『ゲーム&ウオッチ』(1980年)のヒットがあって、ファミコン開発の資金的猶予を得る。

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▲『カラーテレビゲーム6』
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▲『カラーテレビゲーム15』
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▲『ゲーム&ウオッチ』
 安田均が自著『安田均のゲーム紀行1950-2020』(新紀元社、2020年)のなかで、70年代の半ばから80年代の半ばまでを“カンブリア紀”といったその端緒は、シリコンバレーに始まるエウレカの連鎖の中にあった。
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