連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第21回
6-3 『ザテレビジョン』と『コンプティーク』創刊
さて、1982年の年末(たぶん)のぼくがどうしていたかと言えば、当時角川書店専務だった角川歴彦に会うことになった。角川書店がパソコン雑誌を創刊すると言っているけれど、きみも企画書を書いてみないかと薦めてくれる人がいた。その人を介して、ぼくは手書きの企画書を持って角川歴彦に会いに行った。
角川書店はその年(1982年)の9月にテレビ番組の情報誌『週刊ザテレビジョン』を創刊したばかりだった。その後も次々に雑誌を創刊し、社史的に言えば“書籍の時代から雑誌の時代へ”の移行開始の時期だ。
角川書店の雑誌戦略は“ブラウン管の周りに雑誌創刊のヒントがある”というもので、『ザテレビジョン』に続いてぼくの関わったPC雑誌『コンプティーク』(1983年)、アニメ雑誌『Newtype』(1985年創刊)、ゲーム誌『マル勝ファミコン』(1986年創刊)、CD・ビデオ雑誌『ビデオでーた』『CDでーた』(1987年)、そして『東京ウォーカー』(1990年)など、次々に雑誌を創刊することになる。
出版業界は戦後一貫して“雑高書低”と言われた。つまり雑誌が成長の源泉だった。文庫や全集を出版していた角川書店は中堅の書籍出版社に留まっていたところを、角川春樹の時代に文庫と映画のメディアミックスが成功して資本を蓄積し、そしていよいよ大事業である週刊誌創刊に着手することになった。これが“大手”への第一歩だった。また雑誌を基盤にしたコミックやライトノベル展開、アニメ化、ゲーム化などのメディアミックスの始まりでもあった。
当時角川書店の雑誌を統括していた角川歴彦は、『I/O』(工学社)、『月刊マイコン』(電波通信社)、『月刊ASCII』(アスキー)のような分厚いいわゆるパソコン雑誌を想定していたらしい。雑誌の広告のページ数が全体の半分を超えてはならない、という規定は、当時この手の雑誌が広告だらけだったことから定められたと記憶している。そのくらいパソコン雑誌は広告が入っていたたから、彼は広告が入る雑誌としてパソコン雑誌を創刊したかったと言っていた。
しかし、ぼくの書いた企画書はゲーム雑誌で、そのなかでも“HOW TO WIN(ハウツーウィン)”という、いわゆるゲーム攻略の企画をメインに据えていた。そのことをむしろ面白がってくれたようだった。
面接は“採用”、という空気で終わった。ぼくにはマイコンやプログラムの技術的素養がなかったから、いわゆるパソコン雑誌を作ることは無理だった。CES(アメリカの家電見本市)で大量に集めた雑誌のなかに、“HOW TO WIN”を目玉にしたオールグラビアの薄い中綴じ雑誌があって、写真をふんだんに使った何かのゲーム攻略法が掲載されていた。それが目新しくて企画書に取り込んだのが奏功したようだった。
そんなことがあってぼくは角川書店に拾われることになった。てっきり角川書店に転職できると思ったが、そうではなく、ぼく以外にパソコン雑誌の企画書を提出してスタンバイしている会社があるから、そこに合流するようにという指示だった。赤坂一丁目のマンション内にあるコンプティークという名の会社に行ってみると、社長と秘書しかいなくて、これから事業を始めようと準備を進めているということだった。あるきっかけから角川書店につながり、ぼく以前に雑誌創刊の企画を提出していた。
社長のIは占いのコンピュータプログラムの販売をしていて、これから『アップルⅡ』用ソフトを日本のパソコンやTVゲームに移植する事業、Appleやコレコの機材を使ってゲームセンターのような事業を展開しようと準備しているのだと語った。
なぜか雑誌を創刊する気配はまるでなくて不安もあったが、ぼくは『玩具通信』の会社を辞めていたから後戻りという選択肢はなくて、そのコンプティークという会社の2人目の社員になった。1983年の2月か3月かのことだったと思う。社名はI社長が目指したコンピュータゲームが遊べる店、コンピュータ・ブティックを縮めた造語から来ているらしい。
I社長からぼくは海外のゲーム市場に関する雑誌や新聞の記事の翻訳の仕事を仰せつかったが、一向に雑誌創刊の準備に入る気配がないので、仕方なくI社長の了解のもとに自分で人材を集め、総勢4人の編集部を組織し創刊準備に入った。
角川書店と協議し11月を創刊と定め(半年しかない!)、いきなり月刊ではなく『ザテレビジョン』の別冊として不定期刊でスタートすることになった。そういう事情もあり初代編集長は『ザテレビジョン』の編集長の井川浩だった。
この人は小学館でいくつもの雑誌の編集長を歴任したベテラン編集者。彼から見たらぼくたち4人は素人同然で、「何しに来たの?」と言いたくなるような存在だったろう。井川から、助っ人となる編集プロダクションを紹介され、角川書店との折衝でも矢面に立ってもらったが、ぼくたちのことはお荷物に違いなかった。
というのもそのころ『ザテレビジョン』は修羅場のなかにあったからだ。
アメリカの『TV GUIDE』をモデルに雑誌を創刊するという構想は、角川歴彦の脳内には70年代からあったらしい。実際の創刊の段取りとしては、1982年の春に人を介してすでに小学館を辞めていた井川浩に出会い、そこでテレビ雑誌の企画の話をしたところ直ちに井川が人集めを始め、7月には創刊メンバー(東京ニュース通信社『TVガイド』編集部を離脱した7人が中心だった)による事務所開き、そして9月22日には創刊(番組改編直前を狙った)という、週刊誌としてはあり得ないスピードでの船出だった。
しかも創刊号こそ大宣伝を展開したおかげもあって好調に売れたが、2号、3号、4号と刊を重ねるごとに部数が落ちて赤字がふくらみ、7号が出るころには業界に廃刊のうわさが流れるありさまだった。
このころの角川書店の社屋は、いまの第二本社ビルの建つ千代田区富士見のゆうれい坂上の小さなモルタル3階建てだった。“ゆうれい”が幽霊を意味したら、横溝正史の小説を出版している会社らしいが、どうやら坂の上に明治の元勲・森有礼のお屋敷があったので、その“有礼”からそう呼ばれていたらしい。
角川書店はその年(1982年)の9月にテレビ番組の情報誌『週刊ザテレビジョン』を創刊したばかりだった。その後も次々に雑誌を創刊し、社史的に言えば“書籍の時代から雑誌の時代へ”の移行開始の時期だ。
角川書店の雑誌戦略は“ブラウン管の周りに雑誌創刊のヒントがある”というもので、『ザテレビジョン』に続いてぼくの関わったPC雑誌『コンプティーク』(1983年)、アニメ雑誌『Newtype』(1985年創刊)、ゲーム誌『マル勝ファミコン』(1986年創刊)、CD・ビデオ雑誌『ビデオでーた』『CDでーた』(1987年)、そして『東京ウォーカー』(1990年)など、次々に雑誌を創刊することになる。
出版業界は戦後一貫して“雑高書低”と言われた。つまり雑誌が成長の源泉だった。文庫や全集を出版していた角川書店は中堅の書籍出版社に留まっていたところを、角川春樹の時代に文庫と映画のメディアミックスが成功して資本を蓄積し、そしていよいよ大事業である週刊誌創刊に着手することになった。これが“大手”への第一歩だった。また雑誌を基盤にしたコミックやライトノベル展開、アニメ化、ゲーム化などのメディアミックスの始まりでもあった。
当時角川書店の雑誌を統括していた角川歴彦は、『I/O』(工学社)、『月刊マイコン』(電波通信社)、『月刊ASCII』(アスキー)のような分厚いいわゆるパソコン雑誌を想定していたらしい。雑誌の広告のページ数が全体の半分を超えてはならない、という規定は、当時この手の雑誌が広告だらけだったことから定められたと記憶している。そのくらいパソコン雑誌は広告が入っていたたから、彼は広告が入る雑誌としてパソコン雑誌を創刊したかったと言っていた。
しかし、ぼくの書いた企画書はゲーム雑誌で、そのなかでも“HOW TO WIN(ハウツーウィン)”という、いわゆるゲーム攻略の企画をメインに据えていた。そのことをむしろ面白がってくれたようだった。
面接は“採用”、という空気で終わった。ぼくにはマイコンやプログラムの技術的素養がなかったから、いわゆるパソコン雑誌を作ることは無理だった。CES(アメリカの家電見本市)で大量に集めた雑誌のなかに、“HOW TO WIN”を目玉にしたオールグラビアの薄い中綴じ雑誌があって、写真をふんだんに使った何かのゲーム攻略法が掲載されていた。それが目新しくて企画書に取り込んだのが奏功したようだった。
そんなことがあってぼくは角川書店に拾われることになった。てっきり角川書店に転職できると思ったが、そうではなく、ぼく以外にパソコン雑誌の企画書を提出してスタンバイしている会社があるから、そこに合流するようにという指示だった。赤坂一丁目のマンション内にあるコンプティークという名の会社に行ってみると、社長と秘書しかいなくて、これから事業を始めようと準備を進めているということだった。あるきっかけから角川書店につながり、ぼく以前に雑誌創刊の企画を提出していた。
社長のIは占いのコンピュータプログラムの販売をしていて、これから『アップルⅡ』用ソフトを日本のパソコンやTVゲームに移植する事業、Appleやコレコの機材を使ってゲームセンターのような事業を展開しようと準備しているのだと語った。
なぜか雑誌を創刊する気配はまるでなくて不安もあったが、ぼくは『玩具通信』の会社を辞めていたから後戻りという選択肢はなくて、そのコンプティークという会社の2人目の社員になった。1983年の2月か3月かのことだったと思う。社名はI社長が目指したコンピュータゲームが遊べる店、コンピュータ・ブティックを縮めた造語から来ているらしい。
I社長からぼくは海外のゲーム市場に関する雑誌や新聞の記事の翻訳の仕事を仰せつかったが、一向に雑誌創刊の準備に入る気配がないので、仕方なくI社長の了解のもとに自分で人材を集め、総勢4人の編集部を組織し創刊準備に入った。
角川書店と協議し11月を創刊と定め(半年しかない!)、いきなり月刊ではなく『ザテレビジョン』の別冊として不定期刊でスタートすることになった。そういう事情もあり初代編集長は『ザテレビジョン』の編集長の井川浩だった。
この人は小学館でいくつもの雑誌の編集長を歴任したベテラン編集者。彼から見たらぼくたち4人は素人同然で、「何しに来たの?」と言いたくなるような存在だったろう。井川から、助っ人となる編集プロダクションを紹介され、角川書店との折衝でも矢面に立ってもらったが、ぼくたちのことはお荷物に違いなかった。
というのもそのころ『ザテレビジョン』は修羅場のなかにあったからだ。
アメリカの『TV GUIDE』をモデルに雑誌を創刊するという構想は、角川歴彦の脳内には70年代からあったらしい。実際の創刊の段取りとしては、1982年の春に人を介してすでに小学館を辞めていた井川浩に出会い、そこでテレビ雑誌の企画の話をしたところ直ちに井川が人集めを始め、7月には創刊メンバー(東京ニュース通信社『TVガイド』編集部を離脱した7人が中心だった)による事務所開き、そして9月22日には創刊(番組改編直前を狙った)という、週刊誌としてはあり得ないスピードでの船出だった。
しかも創刊号こそ大宣伝を展開したおかげもあって好調に売れたが、2号、3号、4号と刊を重ねるごとに部数が落ちて赤字がふくらみ、7号が出るころには業界に廃刊のうわさが流れるありさまだった。
このころの角川書店の社屋は、いまの第二本社ビルの建つ千代田区富士見のゆうれい坂上の小さなモルタル3階建てだった。“ゆうれい”が幽霊を意味したら、横溝正史の小説を出版している会社らしいが、どうやら坂の上に明治の元勲・森有礼のお屋敷があったので、その“有礼”からそう呼ばれていたらしい。
その玄関には角川書店初の劇場アニメ『幻魔大戦』のポスターの合間に、“金の無駄遣い”“ザテレビジョン即刻廃刊”などと書かれた労働組合のビラがべたべた貼られていた。書籍出版社の本社の人々から見れば、子会社のしかも新参者ばかりの雑誌屋が、毎号4,000万円の赤字を垂れ流していたのだ。「よそ者がなにを」という空気感は間違いなくあった。
『コンプティーク』も、そんな空気のなかで、1983年11月に創刊された。確か15万部ぐらい刷って返品率は5割を超えた。2号目は翌1984年2月発売で(『ザテレビジョン』の別冊で4号以降隔月刊行)部数を半分に絞ったにもかかわらず返品率は7割を超えた。
『コンプティーク』も、そんな空気のなかで、1983年11月に創刊された。確か15万部ぐらい刷って返品率は5割を超えた。2号目は翌1984年2月発売で(『ザテレビジョン』の別冊で4号以降隔月刊行)部数を半分に絞ったにもかかわらず返品率は7割を超えた。
最初の2年は雑誌が売れず鬱々とした日々だった。本社の『俳句』や『短歌』の編集長たちに交じって部数会議に出席するのがつらかった。1984年の夏には足の裏にびっしりできものができて歩けないほどで、皮膚科に行ったらストレスだと言われた。
その会社がつぶれても、名前は雑誌名として角川書店が買い取った。ぼくたち編集スタッフは所属を失い、フリーとなって編集費がぼくの個人口座に振り込まれるという時代がしばらく続いた。だけど不安を訴える人間は誰もいなかった。先行きの見通せない宙ぶらりんの状態を平気に過ごしていたのだから、のんきなものだったといまでは思う。
それでも、兄貴分の『ザテレビジョン』も『コンプティーク』も、徐々に売れるようになった。
「『ザテレビジョン』が、単号で黒字になるのは、創刊して2年後で、5万円の黒字が出た。その時、5万円を神棚に供え“ようやく利益がでました”と頭を下げた。軌道に乗ったのは創刊5年目辺りで、発行部数は最大で130万部まで伸びた。雑誌はコンセプトさえしっかりしていればいつか花開くものと、いまでも思っている」
と角川歴彦はどこかで書いている。
『ザテレビジョン』の編集現場の手ごたえとしては、『ゴジラ』が表紙の1983年5月13日号と、1号置いたタイガーマスクを表紙にした1983年5月27日号が飛躍のきっかけだと感じられるものだった。角川映画の人気女優・薬師丸ひろ子と原田知世の独占記事ができるのも他誌に対する大きなアドバンテージとなった。番組表付きの芸能誌という特異の地位を『ザテレビジョン』は獲得した。
『コンプティーク』も次第に雑誌作りの勘どころをつかめるようになり、少しずつ部数も増えて行った。決定打となったのは1985年7/8月号で、『ゼビウス』の隠しコマンドをすっぱ抜いた号だった。ナムコのファミコンソフト『ゼビウス』は開発用に自機が無敵になるなどさまざまなコマンドがあって、これを開発者が、製造時に削除し忘れた。そのコマンドを読者が裏技情報として投稿してきたのだった。
その会社がつぶれても、名前は雑誌名として角川書店が買い取った。ぼくたち編集スタッフは所属を失い、フリーとなって編集費がぼくの個人口座に振り込まれるという時代がしばらく続いた。だけど不安を訴える人間は誰もいなかった。先行きの見通せない宙ぶらりんの状態を平気に過ごしていたのだから、のんきなものだったといまでは思う。
それでも、兄貴分の『ザテレビジョン』も『コンプティーク』も、徐々に売れるようになった。
「『ザテレビジョン』が、単号で黒字になるのは、創刊して2年後で、5万円の黒字が出た。その時、5万円を神棚に供え“ようやく利益がでました”と頭を下げた。軌道に乗ったのは創刊5年目辺りで、発行部数は最大で130万部まで伸びた。雑誌はコンセプトさえしっかりしていればいつか花開くものと、いまでも思っている」
と角川歴彦はどこかで書いている。
『ザテレビジョン』の編集現場の手ごたえとしては、『ゴジラ』が表紙の1983年5月13日号と、1号置いたタイガーマスクを表紙にした1983年5月27日号が飛躍のきっかけだと感じられるものだった。角川映画の人気女優・薬師丸ひろ子と原田知世の独占記事ができるのも他誌に対する大きなアドバンテージとなった。番組表付きの芸能誌という特異の地位を『ザテレビジョン』は獲得した。
『コンプティーク』も次第に雑誌作りの勘どころをつかめるようになり、少しずつ部数も増えて行った。決定打となったのは1985年7/8月号で、『ゼビウス』の隠しコマンドをすっぱ抜いた号だった。ナムコのファミコンソフト『ゼビウス』は開発用に自機が無敵になるなどさまざまなコマンドがあって、これを開発者が、製造時に削除し忘れた。そのコマンドを読者が裏技情報として投稿してきたのだった。
裏技情報は当時のゲーム雑誌の人気企画で、これを掲載したら間違いなく雑誌は売れると予想できた。しかしそういった情報は何でも自由に掲載していいというものではなかった。これを載せると今後の情報を規制される、法的措置をとられるといった危険があった。しかし編集部はそういうリスクを冒してでもこの情報を掲載することにした。
カラーページの締め切りは過ぎていたので、モノクロ16ページを使い、他の裏技情報とともに特集とした。やたらと力こぶの入った“Hゲーム特集”、デビューしたての中山美穂の表紙も話題になった。本号はたちまち売り切れ、ただちに増刷した。印刷所からは、雑誌の増刷は田中金脈をすっぱ抜いたときの『文藝春秋』以来だと、褒められた。
雑誌が発売されるとナムコからは厳重な抗議を受け、起訴するとまで言われた。ぼくは謝罪のために大田区にあったナムコ本社に日参しなければならなかったが、この記事のおかげでゲームの販売も伸びたのでうやむやとなり、広報部とは従前に増して親密となった。
カラーページの締め切りは過ぎていたので、モノクロ16ページを使い、他の裏技情報とともに特集とした。やたらと力こぶの入った“Hゲーム特集”、デビューしたての中山美穂の表紙も話題になった。本号はたちまち売り切れ、ただちに増刷した。印刷所からは、雑誌の増刷は田中金脈をすっぱ抜いたときの『文藝春秋』以来だと、褒められた。
雑誌が発売されるとナムコからは厳重な抗議を受け、起訴するとまで言われた。ぼくは謝罪のために大田区にあったナムコ本社に日参しなければならなかったが、この記事のおかげでゲームの販売も伸びたのでうやむやとなり、広報部とは従前に増して親密となった。