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コンプティークが月刊化をはたしてから1年。日本各地にはどういうソフトハウスがあったのか【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第22回

 『ゼビウス』の隠しコマンド掲載号を契機に『コンプティーク』の部数は上り調子となり、1986年新年号から月刊化されることになった。

 それまで『コンプティーク』は、アーケードゲーム、ファミコンゲーム、PCゲームすべての攻略記事を掲載していたが、PCゲームやテーブルトークRPGの紹介、関連するマンガや読み物を掲載する雑誌に衣替えし、時を合わせて月2回刊行の『マル勝ファミコン』を創刊(1986年4月)することになった。これを機に、角川書店の100%子会社角川メディア・オフィスが設立され、ぼくは取締役になった。宙ぶらりんだったぼくたちの身分もようやく保証されたわけだ。

 『コンプティーク』はその後も部数を伸ばし、やがて類誌一番誌となる。さらにコミックス、攻略本のレーベルなどを一気に立ち上げ、グループの角川スニーカー文庫、ドラゴンブックス(富士見書房)の立ち上げに参加し、コミック誌、RPG誌を創刊するなど、どんどん活動領域を広げていくことになる。

 時代の空気を知ってもらうために、長々と『ザテレビジョン』と『コンプティーク』の話を書いた。角川書店の雑誌戦略の要となる両誌の始まりは、以上のような泥縄的見切り発車でのスタートだった。『ザテレビジョン』は、競合する小学館が『TeLePAL』を、学研が『テレビライフ』を創刊することになっていて、彼らにどうしても先んずる必要があったのだ。『コンプティーク』は競合するパソコン誌がすでに59誌もあると言われ、ファミコンとMSXパソコンの発売された83年中には参戦しておきたかった。

 『日本雑誌協会 日本書籍出版協会50年史』(日本雑誌協会/日本書籍出版協会、2007年)は、このころの雑誌の創刊状況を以下のように紹介している。

 「1980年だけでも創刊誌が235誌を記録し、従来になかったジャンルの雑誌創刊が相次いだ。『Number』(文藝春秋)、『BOX』(ダイヤモンド社)、『写楽』(小学館)、『コスモポリタン』(集英社)、『とらばーゆ』(就職情報センター)、『ブルータス』(平凡出版)、『BIG tomorrow』(青春出版)など多様な雑誌が出た。さらに1981年にも、写真誌『FOCUS』(新潮社)、科学誌『Newton』(教育社)、『ダカーポ』(平凡出版)……などユニークな雑誌が創刊されていく。1983年は史上最高と言われた1980年を上回る257誌が、1年間に創刊される。」

 年間257誌である! 1年の間に雑誌が毎日のように創刊されていた時代があったのだ。雑誌が日本のカルチャーシーンをリードしていたことの証明だろう。

 ちなみに、2020年の創刊誌は7誌、2021年の創刊誌は6誌、2022年の創刊誌は2誌、というのが最近の状況で、80年代とは隔世の感がある。戦後、出版界は一貫して雑誌の成長により支えられてきたが、80年代がまさにそのピークで、多彩な雑誌が個性を競う時代だった。その後、出版業界には2度とこのような時代は訪れなかった。

 角川書店がこの時代に雑誌を手掛けなければ、いまでもKADOKAWAは、未上場の中堅書籍出版社“角川書店”で終わっていただろう。数々の雑誌と、雑誌を基盤としたメディアミックス戦略、アニメやゲームへの進出もなかったろう。

 おもちゃの業界にもゲームの業界にもチャンスの時があったように、出版業界にもそういうタイミングというものがあったということを示したかった。たまたま幸運の女神の前髪を掴む‟時”に恵まれ、最初の度重なる躓(つまず)きも乗り越えられたのだと思う。

6-4 ゲーム業界の形成1:パソコン系ソフトハウスの誕生

 『コンプティーク』1987年新年号――月刊にしてからちょうど1年経過し、部数も伸び盛りのころ――の巻頭では“超新作スクープ全国縦断ソフトハウスマラソン28社”を特集している。表紙は、マラソンつながりでアイドルの佐野量子ちゃん(武豊さんの奥さんですね)が、頭にオリーブの冠をかぶり白のドレープをまといにっこり笑っている。

 ソフトハウスマラソンは、その後、年に1度の新年号の名物企画となって受け継がれた。内容としては、北は北海道から南は九州まで散らばるソフトハウスを訪ね、未公開の新作情報と読者へのプレゼントを奪い取ってくるというものだった。

 ちなみにこの号が数あるパソコン雑誌、ゲーム誌のなかで類誌一番誌であることが業界のデータで判明し、4月号(表紙は13歳当時の後藤久美子さん、ゴクミ!)で類誌ナンバー1であることを表紙にうたった。

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▲『コンプティーク』1987年4月号
 それはともかく、かつてはパソコン系のゲームを開発する会社を“ソフトハウス”と言った。(ゲーム業界以外でもソフトウェアを作る会社のことを指して、一般的にソフトハウス、ソフトウェアハウスという表現は使うが)

 おもちゃ製造が東京に、プラモデルが静岡に、アメリカで半導体やIT企業がシリコンバレーに集中していたのと対照的に、当時、日本のパソコンのゲームソフトハウスは、全国に散らばっていた。

 1977年の『アップルⅡ』、1979年のシャープ『MZ80C』、同年NEC『PC-8001』などパソコンが次々に発売され、『ASCII』『マイコン』『RAM』『I/O』といったパソコン雑誌からプログラミング言語の知識を学び、そこに掲載されているベーシックや機械語のリストを打ちこんでゲームを楽しむ、といったことが潮流となった。秋葉原で、あるいは通販で、カセットに吹き込んだゲームプログラムを購入できた。商売として成立し始めたのだ。

 小学校中学年ぐらいになった団塊ジュニアが“マイコン少年”と言われ、30代に達した団塊世代以下が、実用系、ビジネス系、そしてゲームを楽しみ、やがてその関係が受け手と送り手の関係となってソフトハウスが成立した。ソフトハウスが全国に散らばっている理由は、パソコンさえあれば1人でも起業できる。人件費以外、たいしたコストもかからないから小資本で済む。各地の大学のサークルや友人同士で始めた例もあった。

 というわけで、北から札幌はデービーソフト、マイクロネット、同じ札幌出身のハドソンはこのころ本社を東京に移していたので東京でノミネート。東京はスクウェア、エニックス、ボーステック、ゲームアーツ、工画堂スタジオ、システムサコムなど、BPSは横浜、光栄は横浜の日吉、日本ファルコムは立川にあった。

 名古屋にはT&Eソフト、四日市にマイクロキャビン、大阪にハミングバード、クリスタルソフト、兵庫にシンキングラビット、ザインソフト、高知にPSK、福岡にシステムソフト、リバーヒルソフト、佐世保にテクノソフトなどがあった。

 記事中の写真を見ると、写っている開発スタッフが実に若々しく、生まれたての業界の匂いがする。ちなみにこの企画、1987年新年号で28社だったものが1989年新年号では40社、1991年は2号連続企画となって新年号では東京41社、2月号で全国38社計79社と、年を追うごとに社数が増え、一方で東京集中も進んだ。

 こうしたパソコンからのゲーム参入組とは別に、ジュークボックスやピンポールなどの遊戯機器、百貨店の屋上に設置する遊具などからアーケードゲーム業界を形成した一群があった。すでに紹介したナムコ、タイトー、カプコン、それからセガ・エンタープライゼス、コナミ、テクモ、ジャレコなど。これらの会社の業界歴は古く規模も大きかった。

 ゲーム業界にSNS系やスマホゲーム系が加わるのはずーっと後の話だ。
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