電撃オンライン

“伝承玩具の現代化”という着想――『ベイブレード』の誕生経緯を見る。そして合併に至るまでのタカラとトミーの動きについて【佐藤辰男の連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:電撃オンライン

公開日時:

[IMAGE]

連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第38回


 
前回の予告どおり『ベイブレード』の話から。これは角川書店時代の経営理念“不易流行”の応用例だと思う。不易流行はそもそも芭蕉の俳句の心を表す言葉だが、創業者の角川源義は、これを自らの出版事業の根源に据えた。

 その心は、新しい言葉を用いて、普遍的な価値あるものに到達する極意のようなものだ。新しいと言われるもののなかに、古くからの変わらぬ人の心が込められていれば、それは新しい時代の人の心にも響く――ということだ。出版でいえば『源氏物語』が谷崎潤一郎により現代語訳が出たり、『あさきゆめみし』というマンガになったり、NHKの大河ドラマになったり、時代時代で新しい解釈が加わってよみがえるみたいなことだと思ってくれればいい。

 佐藤慶太が“権限移譲”を掲げて生まれたタカラの最年少役員が真下修で、『ベイブレード』の開発者だ。彼が1年半にわたり毎週土曜日に玩具店の店頭に立ち、子どもと接触するなかで得た知見から『ベイブレード』が生まれた、というエピソードが『「タカラ」の山 老舗玩具メーカー復活の軌跡』 (竹森健太郎、朝日新聞社、2002年)に掲載されている。

 さらに真下は、“伝承玩具の現代風アレンジ”という着想を得て『ビーダマン』を開発する。これはハドソンのゲーム『ボンバーマン』のキャラのお腹からビー玉が飛び出し、対戦遊びをするというもの。単なる対戦だけじゃなく、サッカー、野球、バスケと遊びの幅を広げ“改造パーツ”を発売してから急速に売り上げが伸びた。そこからビー玉があるならベーゴマだったら……というアイデアから『ベイブレード』が誕生したのだ。

 “伝承玩具の現代化”という着想こそ不易流行の心だ。真下に言わせれば「カードダスも『遊☆戯☆王』も昔のめんこや切手」ということになる。さらに伝承玩具がよいのは父親の支持が得られることだった。

 「テレビキャラクターだけの商品と違い、父兄が寄ってくる。自分たちがかつて体験したこともあるので、つい教えたくなる。改造するとどういう変化があるかという理屈もわかっている。価格も安いため、二つ三つまとめて買ってくれる」(『「タカラ」の山』より)

 かくして『ベイブレード』はその後何度も何度も改変されて、いまもグローバルで売れている。

 『デュエル・マスターズ』『ベイブレード』、それからトミーの『ZOIDS』などの商品群は、小学館と組んで積極的にマンガ化とアニメ化を進めたことも大きかった。バンダイとは違うメディアミックスの新たな手法を、この時期タカラとトミーが実践したことはのちのちまで大きな財産となるのだった。

 次に会社としてのタカラの動きなどを見ていこう。これらのヒット商品に恵まれ急成長したタカラだが、 2004年3月期には売上1000億円を超えるも、利益は激減し、合併前の2005年3月期には赤字転落、このタカラの赤字は合併後のタカラトミーに持ち越される。

[IMAGE]

 合併後タカラトミーの決算(2006年3月期)は売上が1,855億8千1百万円、経常損失が△10億4千4百万円、当期純損失が△97億1千2百万円、という結果となる。ヒット商品に恵まれて業績は回復したが、このころのタカラはあまりに事業を拡大しすぎた。 

 2000年に慶太が設立したドリームズ・カム・トゥルー、ラジコンメーカーの太洋工業を連結子会社化。2001年にはホームセンター向け販売会社の子会社化、2002年2月には電気自動車の企画開発、販売業を営むチョロキューモーターズ株式会社(現連結子会社)および玩具販売業を営むタカラモバイルエンタテインメント 株式会社(現 連結子会社)を設立。2002年9月にキデイランドが持分法適用会社に。12月に日本電熱を連結子会社化、2003年にアトラスを連結子会社化、ブロッコリーの株式を取得する。

 つまずきとしてとてもわかりやすかったのが、“実際に乗れるチョロQ”というコンセプトで2002年に発売された電動『Q-CAR』シリーズで、おおいに話題にはなったものの実際の販売は振るわず、わずか2年で撤退することになった。

 業績悪化に伴いタカラはコナミグループを離脱し、2005年4月には、代わってインデックスがその株式を引き受け、タカラはインデックスグループとなる。慶太は代表権を返上し会長となり、アトラスの社長をしていた奥出信行が社長に就任することになった。 

 財政的に自立できない状況から一刻も早く脱したかったのか、それともあるべき理想の姿“総合ライフエンタテインメントカンパニー”を1日も早く実現したかったのか、本業でない会社の買収やアライアンスを繰り返し、結果的にいばらの道を歩むことになったが、定番商品とこの時代の新しいヒット商品がいまのタカラトミーを支えていることを思えば、この時代のタカラと佐藤慶太は、ヒットメーカー佐藤安太の直系として際立った存在であると特筆していい。 

 さて、今度は合併までのトミーの業績の推移を見よう。

 前章では、1996年に『ポケットモンスター』の権利を取得して以来、急成長したトミーの姿を描いた。そこから2000年に東証1部に上場するまでのトミーは実に順調に成長するのだが、さらにその先の合併までには試練があった。

 2000年3月期には968億円あった売り上げが、2年後の2002年3月期には644億円にまで落ち、その年の経常損失13億円、当期純損失16億円、2003年3月期は売り上げが回復し経常利益もわずかに黒字転換するものの、当期純損失13億円、2004年3月期はコストダウン、在庫管理の徹底、売上原価の削減、希望退職者の募集等による人件費の削減といった緊急施策により、ようやく売り上げと利益が回復するという状況だった。

 トミーとて、タカラと合併する直前までとても順風満帆とはいかなかった。企画力について、それでもトミーは、『ポケモン』以降、プロダクトアウトからマーケットインの手法を身に着け、バンダイのキャラクターマーチャンダイジングとは一線を画したマンガやアニメとのメディアミックスによるIP戦略を取り入れ、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』『NARUTO-ナルト-』、あるいはディズニー、サンリオなどの他社IP、『ZOIDS』、『トミカ』、『シンカリオン』などの自社IPを使ったメディア戦略によってヒット作を生み出すようにはなっていたのだが。

 名古屋学院大学の林淳一という経営学の先生が、タカラの佐藤安太から博久、慶太への事業承継を巡る論文を書いていて、ネットでも読むことができる。そのなかで林は、合併前のタカラの経営の失速の外部的要因を下記のように分析している。

  1. 深刻な少子化
  2. 業界再編
  3. 流通構造の変化
  4. 家庭用ゲーム機の普及
  5. 業界首位バンダイの安定的成長

 合併前のトミーの失速についても以上のことは当てはまっていたと思う。だれも大きな時代の流れに抗うことはできない。ひとつひとつ吟味すれば、これまでぼくが書いてきたおもちゃ業界に立ちはだかった壁に合致すると、読者は気づいてくださったことだろう。

 タカラが企画力でこれを突破しようとしたのに対し、トミーは経営力でこれに耐えた、という気がする。そして互いに同じ業界のワンツーとして合併という選択肢が浮上したのだろう。

 2006年3月にタカラとトミーは合併し、タカラトミーとなった。当時の業界の空気感というものは必ずしも歓迎ムードではなかったし、両社の間に流れる空気も微妙だった。

 繰り返しになるが、合併直後のタカラトミーの決算(2006年3月期)は売上1,855億円、経常損失 10億円、当期純損失97億円という厳しいもの。合併から1年経った2007年3月期には、売上1,818億円、経常利益44億円、当期純利益17億円と、利益の出る体質に転換した。

 その後2010年代に至るまでタカラトミーは著しい成長を遂げるわけでもないし、その後何度も指標とすることになる“利益体質の継続的な改善”、“営業利益率10%”という目標にはなかなか届かない、もどかしい状態が続くことになる。

 次の章でぼくは、“イノベーション”と“グローバル”をキーワードにおもちゃと出版とアニメ、そしてゲームの業界を比較して未来を展望しようと思うが、そのなかでタカラトミーは、いまはそういうもどかしい状態から脱し、新たな成長軌道に乗ろうとしているように見える。そのことは次章で触れよう。
【毎週金曜日に更新予定です。次回は1月中旬以降に掲載予定です。】

前回のコラムはこちら

第1回はこちら

    本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります