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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第31回
7-2 それぞれの岐路。ソフトバンク、マイナビ、アスキー、アクセラ、そしてメディアワークス
かつて競争相手の出版社だった(そうぼくは思っていた)ソフトバンクには、80年代におもちゃの業界誌から転身して、同社の一連のPC雑誌を統括している先輩T氏がいて、ぼくも同じ境遇だったから、親交があった。
携帯電話もインターネットもなかった1981年当時、株式会社日本ソフトバンクの創業者・孫正義は、無数の事業アイデアのなかから、パソコンソフトの流通事業を選んだ、とソフトバンククリエイティブのホームページ“ソフトバンクニュース”にある。パソコンの黎明期で、大小さまざまなソフトハウスが誕生するなかで「ソフトのカタログやプログラム集を作り、販売店や関係先に配布する流通事業の一部としてスタートしたのが、出版事業の礎となりました」という。
ソフトバンクのパソコン雑誌の戦略は、先行する『I/O』(工学社、1976年)や『月刊アスキー』(アスキー出版、1977年)と違って、機種ごとに雑誌を出すという、当時はなかった新機軸だった。機種別にソフトウェアを品揃えする流通業者の情報誌戦略としては、あり得る戦略だったという気もする。
シャープのMZシリーズを対象とした『Oh!MZ』(1982年、のちに『Oh!X』)、NECのPCシリーズを扱う『Oh!PC』(1982年)、富士通系の『Oh!FM』(1982年)、東芝系の『Oh!PASOPIA』(1983年)などの雑誌群は、販売も広告売上も極めて順調だったはずだ。
パソコン雑誌の次にソフトバンクが進んだ道は、総合ゲーム情報誌『Beep』(1984年)の創刊で、パソコン誌からゲーム誌への拡大は、当時の他の同系統の出版社も選択した道だ。問題はその先で、ぼくの知るソフトバンクの先輩は、次はマンガ誌をやると酒席でぼくに話してくれた。
これは当時のサブカルチャーを担ったメディアの行き方としてあり得た発想で、マイコン→ゲーム→アニメ→マンガ(順番はともかく)は一括りだった。現にぼくたちは『コミックコンプ』(1988年)を創刊したし、アスキーにも『アスキーコミック』(1992年)があった。
孫正義の評伝『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一、小学館、2012年)によれば、80年代前半の孫正義は、競争相手としてリクルートを意識していて、リクルートの『住宅情報』『カーセンサー』『エイビーロード』などのカタログ誌に対抗して、割引チケット付きのショッピング誌『TAG』を立ち上げて失敗し、10億円の借金を作った、というエピソードを紹介している。
出版事業の失敗から孫は、通信の世界に大きく方向転換する。「情報革命で人々を幸せに」がソフトバンクの経営理念となる。同書には、2010年のインタビューで「30年後には、紙の雑誌も紙の本も100%なくなる」と言い切る孫が描かれている。“出版社としてのソフトバンク”の次を、“オタク系”で切り拓こうとしたぼくの先輩は、まもなくソフトバンクを辞めることになった。その後ソフトバンクは出版不況などどこ吹く風の成長を見せる。いまはSBクリエイティブがグループの中で活発な出版活動を継続しているが。
いまのマイナビも、かつては毎日新聞のグループ会社として、毎日コミュニケーションズという名の出版社だった。新聞社つながりで将棋の雑誌を発行し、パソコン誌、ゲーム誌を刊行していた。『Mac Fan』『PC fan』『ニンテンドードリーム』(1996年に『The 64DREAM』として創刊。2001年に『Nintendo DREAM』に誌名変更)などの雑誌は、手強い競合誌だった。
しかし、1995年に始まるインターネットでの就職情報サービスーー現在のマイナビのサービスが開花して、あれよあれよという間に、リクルートに比する大手人材情報サービス企業に成長していった。ソフトバンク同様、紙の情報誌にいち早く見切りをつけていたのだろう。
後年の話となるが、リクルートが、純然たる出版社であった子会社のメディアファクトリーを、競争入札のすえ角川グループホールディングスに売却した(2011年)のも、出版をノンコア事業として切り離し、その資金をネット系情報事業、海外人材事業の買収にあてるためだった。あとで知ることだがリクルートは東証1部上場を控えていた。証券市場に、グローバルなテック企業という立ち位置を鮮明にする必要があったから、オタク系出版とアニメ事業を営むメディアファクトリーは“ノンコア”だと言いたかったのだろう。
アスキーも90年代半ばに大きな転換を経験した。89年に株式公開したあと派手な事業の多角化に失敗し、分裂騒ぎ(1991年、経営方針を巡る対立から塚本慶一郎と郡司明郎がアスキーを去る)もあって、97年にはCSKの傘下に入ることになった。当時実質的に出版を仕切っていた小島文隆常務が、西和彦社長の経営に異議を唱え1996年に退社し、7月にアクセラを設立、競馬雑誌『クリゲ』そして翌年には『週刊TV Gamer』を創刊した。
この経緯を当時の日経ベンチャー(1996年10月3日号)は、
「小島氏がアスキーで率いた出版部門は同社の利益の大半を稼いでいた。だが、バブル期の多角化経営で抱えた借金返済にあてられ、『事業を伸ばす再投資に回されなかった』(小島氏)。さらに、西社長個人への緊急融資案件まで出て、小島氏らは案件取り消しを迫ったが、最終的に辞任」
とその経緯を説明している。これまで紹介してきた会社群は出自が伝統的な出版社ではなく、PC・IT系の事業と出版を両輪として(ないしはポートフォリオとして)持つ企業で、いずれも何らかの選択を迫られていまに至ることは紹介したとおりだが、アスキー、アクセラの例は、その後に辛い展開が待っていた。西の新規事業が時代の波に乗り、小島の出版事業を包み込むようなものであったら違う道があったろうに、といまでも思う。
小島文隆と飲み仲間だったぼくは、雑誌編集者として彼を尊敬していた。彼の編集長時代の『LOGiN』はめっぽう面白かったし、彼が創刊した『ファミコン通信』(のちの『ファミ通』)、『EYE-COM』(のちの『週刊アスキー』)は時代を画する雑誌だったと思う。
小島が独立したときぼくが感じた懸念は、収益化に時間のかかる週刊誌を創刊しようとしたことだった。すぐに現金収入となるコミックスのような書籍事業との組み合わせで、経営を安定させるべきではないか、といった意見を彼に伝えた記憶がある。アクセラとなって彼が手掛けた競馬の雑誌『クリゲ』もゲームのライトユーザー向けの『週刊TV Gamer』も、ほれぼれするほどいい雑誌だった。
しかし96年、97年という創刊のタイミングはいかにも悪かった。出版不況が始まっていて、同じ領域に複数の雑誌が共存できる時代は終わっていた。アクセラは2000年には畳まざるを得ない状況となった。本当に惜しいことだった。
先の日経ベンチャーの記事で小島は、小規模の会社で始めるという選択肢もあったけれど、自分たちの得意な分野で勝負したかったと述べている。なにせ立ち上げ時のアクセラには100人からの社員がいて、多くが雑誌編集者だった。ぼくたちと状況は酷似していたが、短い間に時代が変わってしまった。力勝負で時代に負けた。得意分野で勝負するという選択の結果なのだから、仕方がなかったとしか言いようがない。
だから、ぼくたちが角川書店と別れてメディアワークスを設立したのが、1992年であった事実は、その後5年、10年経過して振り返ったときに、ぎりぎりセーフのタイミングだったと思ったものだ。会社に降りかかった災難が、出版界に降りかかった災難(=出版不況の始まり)より3年早かった。まだつまずいても立ち直るチャンスがあった。本当の危機の前に体質改善を済ませることができたと感じた。耐え忍ぶうちにTVゲームの次世代機戦争とティーンズ文庫戦争が起きて、運を引き寄せた。
僕たちの新会社は、すべての雑誌を継続すると決めたから、70人の社員が集結することができたのだが、創刊した5誌『電撃王』『電撃スーパーファミコン』『電撃PCエンジン』『電撃メガドライブ』『電撃コミックガオ!』には、これまで自分たちが作ってきた『コンプティーク』『マル勝スーパーファミコン』……などが競合誌として立ちふさがった。合併された角川メディア・オフィスに人は残らなかったが、角川書店は編集制作会社を動員して雑誌を維持したからだ。
この状況は当然読者を混乱させたし、部数も痛み分けとなって、華々しいスタートとはいかなかった。
携帯電話もインターネットもなかった1981年当時、株式会社日本ソフトバンクの創業者・孫正義は、無数の事業アイデアのなかから、パソコンソフトの流通事業を選んだ、とソフトバンククリエイティブのホームページ“ソフトバンクニュース”にある。パソコンの黎明期で、大小さまざまなソフトハウスが誕生するなかで「ソフトのカタログやプログラム集を作り、販売店や関係先に配布する流通事業の一部としてスタートしたのが、出版事業の礎となりました」という。
ソフトバンクのパソコン雑誌の戦略は、先行する『I/O』(工学社、1976年)や『月刊アスキー』(アスキー出版、1977年)と違って、機種ごとに雑誌を出すという、当時はなかった新機軸だった。機種別にソフトウェアを品揃えする流通業者の情報誌戦略としては、あり得る戦略だったという気もする。
シャープのMZシリーズを対象とした『Oh!MZ』(1982年、のちに『Oh!X』)、NECのPCシリーズを扱う『Oh!PC』(1982年)、富士通系の『Oh!FM』(1982年)、東芝系の『Oh!PASOPIA』(1983年)などの雑誌群は、販売も広告売上も極めて順調だったはずだ。
パソコン雑誌の次にソフトバンクが進んだ道は、総合ゲーム情報誌『Beep』(1984年)の創刊で、パソコン誌からゲーム誌への拡大は、当時の他の同系統の出版社も選択した道だ。問題はその先で、ぼくの知るソフトバンクの先輩は、次はマンガ誌をやると酒席でぼくに話してくれた。
これは当時のサブカルチャーを担ったメディアの行き方としてあり得た発想で、マイコン→ゲーム→アニメ→マンガ(順番はともかく)は一括りだった。現にぼくたちは『コミックコンプ』(1988年)を創刊したし、アスキーにも『アスキーコミック』(1992年)があった。
孫正義の評伝『あんぽん 孫正義伝』(佐野眞一、小学館、2012年)によれば、80年代前半の孫正義は、競争相手としてリクルートを意識していて、リクルートの『住宅情報』『カーセンサー』『エイビーロード』などのカタログ誌に対抗して、割引チケット付きのショッピング誌『TAG』を立ち上げて失敗し、10億円の借金を作った、というエピソードを紹介している。
出版事業の失敗から孫は、通信の世界に大きく方向転換する。「情報革命で人々を幸せに」がソフトバンクの経営理念となる。同書には、2010年のインタビューで「30年後には、紙の雑誌も紙の本も100%なくなる」と言い切る孫が描かれている。“出版社としてのソフトバンク”の次を、“オタク系”で切り拓こうとしたぼくの先輩は、まもなくソフトバンクを辞めることになった。その後ソフトバンクは出版不況などどこ吹く風の成長を見せる。いまはSBクリエイティブがグループの中で活発な出版活動を継続しているが。
いまのマイナビも、かつては毎日新聞のグループ会社として、毎日コミュニケーションズという名の出版社だった。新聞社つながりで将棋の雑誌を発行し、パソコン誌、ゲーム誌を刊行していた。『Mac Fan』『PC fan』『ニンテンドードリーム』(1996年に『The 64DREAM』として創刊。2001年に『Nintendo DREAM』に誌名変更)などの雑誌は、手強い競合誌だった。
しかし、1995年に始まるインターネットでの就職情報サービスーー現在のマイナビのサービスが開花して、あれよあれよという間に、リクルートに比する大手人材情報サービス企業に成長していった。ソフトバンク同様、紙の情報誌にいち早く見切りをつけていたのだろう。
後年の話となるが、リクルートが、純然たる出版社であった子会社のメディアファクトリーを、競争入札のすえ角川グループホールディングスに売却した(2011年)のも、出版をノンコア事業として切り離し、その資金をネット系情報事業、海外人材事業の買収にあてるためだった。あとで知ることだがリクルートは東証1部上場を控えていた。証券市場に、グローバルなテック企業という立ち位置を鮮明にする必要があったから、オタク系出版とアニメ事業を営むメディアファクトリーは“ノンコア”だと言いたかったのだろう。
アスキーも90年代半ばに大きな転換を経験した。89年に株式公開したあと派手な事業の多角化に失敗し、分裂騒ぎ(1991年、経営方針を巡る対立から塚本慶一郎と郡司明郎がアスキーを去る)もあって、97年にはCSKの傘下に入ることになった。当時実質的に出版を仕切っていた小島文隆常務が、西和彦社長の経営に異議を唱え1996年に退社し、7月にアクセラを設立、競馬雑誌『クリゲ』そして翌年には『週刊TV Gamer』を創刊した。
この経緯を当時の日経ベンチャー(1996年10月3日号)は、
「小島氏がアスキーで率いた出版部門は同社の利益の大半を稼いでいた。だが、バブル期の多角化経営で抱えた借金返済にあてられ、『事業を伸ばす再投資に回されなかった』(小島氏)。さらに、西社長個人への緊急融資案件まで出て、小島氏らは案件取り消しを迫ったが、最終的に辞任」
とその経緯を説明している。これまで紹介してきた会社群は出自が伝統的な出版社ではなく、PC・IT系の事業と出版を両輪として(ないしはポートフォリオとして)持つ企業で、いずれも何らかの選択を迫られていまに至ることは紹介したとおりだが、アスキー、アクセラの例は、その後に辛い展開が待っていた。西の新規事業が時代の波に乗り、小島の出版事業を包み込むようなものであったら違う道があったろうに、といまでも思う。
小島文隆と飲み仲間だったぼくは、雑誌編集者として彼を尊敬していた。彼の編集長時代の『LOGiN』はめっぽう面白かったし、彼が創刊した『ファミコン通信』(のちの『ファミ通』)、『EYE-COM』(のちの『週刊アスキー』)は時代を画する雑誌だったと思う。
小島が独立したときぼくが感じた懸念は、収益化に時間のかかる週刊誌を創刊しようとしたことだった。すぐに現金収入となるコミックスのような書籍事業との組み合わせで、経営を安定させるべきではないか、といった意見を彼に伝えた記憶がある。アクセラとなって彼が手掛けた競馬の雑誌『クリゲ』もゲームのライトユーザー向けの『週刊TV Gamer』も、ほれぼれするほどいい雑誌だった。
しかし96年、97年という創刊のタイミングはいかにも悪かった。出版不況が始まっていて、同じ領域に複数の雑誌が共存できる時代は終わっていた。アクセラは2000年には畳まざるを得ない状況となった。本当に惜しいことだった。
先の日経ベンチャーの記事で小島は、小規模の会社で始めるという選択肢もあったけれど、自分たちの得意な分野で勝負したかったと述べている。なにせ立ち上げ時のアクセラには100人からの社員がいて、多くが雑誌編集者だった。ぼくたちと状況は酷似していたが、短い間に時代が変わってしまった。力勝負で時代に負けた。得意分野で勝負するという選択の結果なのだから、仕方がなかったとしか言いようがない。
だから、ぼくたちが角川書店と別れてメディアワークスを設立したのが、1992年であった事実は、その後5年、10年経過して振り返ったときに、ぎりぎりセーフのタイミングだったと思ったものだ。会社に降りかかった災難が、出版界に降りかかった災難(=出版不況の始まり)より3年早かった。まだつまずいても立ち直るチャンスがあった。本当の危機の前に体質改善を済ませることができたと感じた。耐え忍ぶうちにTVゲームの次世代機戦争とティーンズ文庫戦争が起きて、運を引き寄せた。
僕たちの新会社は、すべての雑誌を継続すると決めたから、70人の社員が集結することができたのだが、創刊した5誌『電撃王』『電撃スーパーファミコン』『電撃PCエンジン』『電撃メガドライブ』『電撃コミックガオ!』には、これまで自分たちが作ってきた『コンプティーク』『マル勝スーパーファミコン』……などが競合誌として立ちふさがった。合併された角川メディア・オフィスに人は残らなかったが、角川書店は編集制作会社を動員して雑誌を維持したからだ。
この状況は当然読者を混乱させたし、部数も痛み分けとなって、華々しいスタートとはいかなかった。