連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第30回
時計の針を戻し、阪神・淡路大震災も地下鉄サリン事件も知らなかった1992年の6月、ぼくは角川書店の子会社である角川メディア・オフィスの代表取締役常務に昇進した。
このころ『コンプティーク』、『マル勝ファミコン』、『コミックコンプ』に続き、『マル勝PCエンジン』(1988年)、『コンプRPG』(1991年)、『マル勝メガドライブ』(1992年)と次々に雑誌を創刊。攻略本やコミックスのレーベルを立ち上げ、角川スニーカー文庫や『富士見ドラゴンブック』に作品を供給し会社は伸び盛りで、編集3人にアルバイト1人で始まったぼくたちの編集部は、10年足らずで70人の社員を要する会社となった。
『コンプティーク』と『マル勝PCエンジン』は類誌一番誌で、『コミックコンプ』と『コンプRPG』はコミックスと文庫に作品を供給する豊かな源泉として機能し、『マル勝ファミコン』も一番誌の『ファミリーコンピュータMagazine』(徳間書店)を追走中だった。さらに劇場映画『サイレントメビウス』の公開を間近に控え、会社は活気にあふれていた。
大忙しだったけれど有頂天だったこのときに、角川書店の角川春樹社長が、弟の角川歴彦副社長(ぼくたち角川メディア・オフィスの社長だった)を角川書店から追放するという、予想だにしない事件が起きた。ぼくが常務に昇進して2カ月後の8月には、子会社ザテレビジョンと角川メディア・オフィスの経理担当で、6月に本社の常務となったばかりのU氏が、アメリカの子会社に不正送金をしたという理由で辞表を書かされた。
この年の春に角川春樹の長男が入社して、『ザテレビジョン』やぼくたちの角川メディア・オフィスの帳簿を調べていることを知っていたが、その調査の結果、『ザテレビジョン』の帳簿から、その社長である角川歴彦に、角川書店乗っ取りの意志を示す証拠をつかんだと、周囲にリークし始め、追い落としが始まった。
事の成り行きに嫌気がさした角川歴彦が、9月に辞表を書いて角川書店を去ることになった。
直後にぼくは角川春樹に呼ばれ、『ザテレビジョン』と角川メディア・オフィスは角川書店に吸収すると告げられた。君は合併後のメディア・オフィス事業の責任者にしてあげるとのお達しだった。猜疑心(さいぎしん)とおぼしき感情から、弟の排除を目的としていることが明白で、あっていいこととは思えなかったから、ぼくは会社に残ることを選ばなかった。フリーとなった歴彦に、一緒に出版社を作ることを申し入れ了解を得たうえでぼくも会社を辞め、70人の仲間とともに新会社を立ち上げることにした。
ぼくも9月末に角川メディア・オフィスに辞表を提出し、翌10月に新会社メディアワークスを登記設立した。同月末には神田神保町にビルを一棟借りし、そこから年末にかけ角川メディア・オフィスを三々五々辞めてくる社員を受け入れた。そして12月には、雑誌5誌の創刊とコミックスの発売にこぎ着けた。
数人で小さな出版社を立ち上げるという選択肢もあったのだが、70人ほぼ全員が新会社への転籍を希望したから、話し合いの結果、1人1人に前職と変わらぬ仕事を約束した。本来であれば会社を辞めることも転職することも個人にとって一大事だ。
辞めるにも転職して新しい仕事に習熟するにも多大なストレスがかかる。それでなくとも、集団退職が明るみに出れば法的にも心理的にもさまざまな圧力が予想できた。団結するためには社員のストレスを最小限にする必要があった。
実際、ぼくが辞めて70人の社員が退職することが明るみに出ると、角川書店の内部は(外部も、マスコミも)騒然となった。ぼくを含めた角川メディア・オフィス役員には懲戒解雇処分(のちに撤回された)が下され、角川歴彦とぼくと経理部長は、“莫大な損害賠償を請求するための証拠集め”という名目で探偵に昼夜見張られることになった。
それはともかく、新会社は、これまで角川メディア・オフィスで刊行してきた雑誌5誌と同等の雑誌の創刊と、これまでのコミックスや攻略本と同等のレーベルを立ち上げた。しかも12月に一斉に。『コンプティーク』に対して『電撃王』、『マル勝スーパーファミコン』に対して『電撃スーパーファミコン』、『コミックコンプ』に対して『電撃コミックガオ!』というように。
例えば『コンプティーク』編集部のスタッフは、彼らにとっては最終号となる1993年新年号(1992年12月8日発売)の編集作業を、当時飯田橋の五軒町寄りにあった角川メディア・オフィスの職場で、92年の11月末ぐらいに校了し、その足で神保町に集結し、すぐさまメディアワークスの社員となって新創刊誌『電撃王』2月号(1993年1月8日発売)の編集作業に取り掛かった。
借りたばかりの新社屋にはまだ机も椅子もなく、床にじかに置かれた電話機からクライアントやライターに電話をかけて、転職の挨拶などをした。管理部門も編集部も、部門単位でそれぞれのスケジュールに従って角川メディア・オフィスを去り、新会社に移籍していった。しんがりは経理部長と経理部員の2人で、全員の辞職を見極めてから新会社に合流した。経理部長は元早稲田大学の探検部出身、まことに胆力のある人物で、ぼくはずいぶん助けられた。
しかし、このやり方はいきなり大きく会社が立ち上がったことによる資金問題、一挙に辞めることによる法的問題、角川書店と取引のある取次、印刷会社、製紙会社、あるいは金融機関が、どうぼくたちに正対してくれるかなどの懸念、実にさまざまな困難な問題があった。
これらの問題に立ち入ると、この1章でも足りなくなるので、それぞれ簡単にその対応を記せば、資金については歴彦の自己資金1億円(と社員からの出資)では足りず、歴彦の人脈とぼくたちのゲーム業界人脈を頼りに資本金集めした結果、4億8千万円の資本金で、1年程度の資金猶予ができた。
法的問題についてはのちに角川グループホールディングスの監査役を務めた渡邊顯弁護士が、優秀な弁護団を組んで指導してくれることになった。角川書店という大看板を敵に回してしまった以上、取次・書店・印刷・用紙・銀行との関係に不安があった。これには出版業界の老舗中の老舗である主婦の友社が販売を請け負うことで、大方解決できた。当時の主婦の友社の石川晴彦会長は、角川歴彦の親友で、歴彦の懇請に応じた形だった。
そういう困難を乗り越えながらかろうじてメディアワークスはスタートし、翌年1993年の夏には、これも予期せぬ角川春樹のコカイン事件があって、思わぬ展開で角川歴彦が角川書店に社長として復帰することになった。しばらく歴彦はメディアワークスの社長を兼務するが、95年6月にぼくがメディアワークスの社長となる。
その間のもろもろは全部飛ばして、この連載のテーマに即して“時”の問題に絞って話を進めよう。1990年代半ばに始まる大きな変化の“時”を、ぼくたちだけではなく、ゲームとPCの出版を手掛けていた各社がどう過ごしてきたかに話を移す。
このころ『コンプティーク』、『マル勝ファミコン』、『コミックコンプ』に続き、『マル勝PCエンジン』(1988年)、『コンプRPG』(1991年)、『マル勝メガドライブ』(1992年)と次々に雑誌を創刊。攻略本やコミックスのレーベルを立ち上げ、角川スニーカー文庫や『富士見ドラゴンブック』に作品を供給し会社は伸び盛りで、編集3人にアルバイト1人で始まったぼくたちの編集部は、10年足らずで70人の社員を要する会社となった。
『コンプティーク』と『マル勝PCエンジン』は類誌一番誌で、『コミックコンプ』と『コンプRPG』はコミックスと文庫に作品を供給する豊かな源泉として機能し、『マル勝ファミコン』も一番誌の『ファミリーコンピュータMagazine』(徳間書店)を追走中だった。さらに劇場映画『サイレントメビウス』の公開を間近に控え、会社は活気にあふれていた。
大忙しだったけれど有頂天だったこのときに、角川書店の角川春樹社長が、弟の角川歴彦副社長(ぼくたち角川メディア・オフィスの社長だった)を角川書店から追放するという、予想だにしない事件が起きた。ぼくが常務に昇進して2カ月後の8月には、子会社ザテレビジョンと角川メディア・オフィスの経理担当で、6月に本社の常務となったばかりのU氏が、アメリカの子会社に不正送金をしたという理由で辞表を書かされた。
この年の春に角川春樹の長男が入社して、『ザテレビジョン』やぼくたちの角川メディア・オフィスの帳簿を調べていることを知っていたが、その調査の結果、『ザテレビジョン』の帳簿から、その社長である角川歴彦に、角川書店乗っ取りの意志を示す証拠をつかんだと、周囲にリークし始め、追い落としが始まった。
事の成り行きに嫌気がさした角川歴彦が、9月に辞表を書いて角川書店を去ることになった。
直後にぼくは角川春樹に呼ばれ、『ザテレビジョン』と角川メディア・オフィスは角川書店に吸収すると告げられた。君は合併後のメディア・オフィス事業の責任者にしてあげるとのお達しだった。猜疑心(さいぎしん)とおぼしき感情から、弟の排除を目的としていることが明白で、あっていいこととは思えなかったから、ぼくは会社に残ることを選ばなかった。フリーとなった歴彦に、一緒に出版社を作ることを申し入れ了解を得たうえでぼくも会社を辞め、70人の仲間とともに新会社を立ち上げることにした。
ぼくも9月末に角川メディア・オフィスに辞表を提出し、翌10月に新会社メディアワークスを登記設立した。同月末には神田神保町にビルを一棟借りし、そこから年末にかけ角川メディア・オフィスを三々五々辞めてくる社員を受け入れた。そして12月には、雑誌5誌の創刊とコミックスの発売にこぎ着けた。
数人で小さな出版社を立ち上げるという選択肢もあったのだが、70人ほぼ全員が新会社への転籍を希望したから、話し合いの結果、1人1人に前職と変わらぬ仕事を約束した。本来であれば会社を辞めることも転職することも個人にとって一大事だ。
辞めるにも転職して新しい仕事に習熟するにも多大なストレスがかかる。それでなくとも、集団退職が明るみに出れば法的にも心理的にもさまざまな圧力が予想できた。団結するためには社員のストレスを最小限にする必要があった。
実際、ぼくが辞めて70人の社員が退職することが明るみに出ると、角川書店の内部は(外部も、マスコミも)騒然となった。ぼくを含めた角川メディア・オフィス役員には懲戒解雇処分(のちに撤回された)が下され、角川歴彦とぼくと経理部長は、“莫大な損害賠償を請求するための証拠集め”という名目で探偵に昼夜見張られることになった。
それはともかく、新会社は、これまで角川メディア・オフィスで刊行してきた雑誌5誌と同等の雑誌の創刊と、これまでのコミックスや攻略本と同等のレーベルを立ち上げた。しかも12月に一斉に。『コンプティーク』に対して『電撃王』、『マル勝スーパーファミコン』に対して『電撃スーパーファミコン』、『コミックコンプ』に対して『電撃コミックガオ!』というように。
例えば『コンプティーク』編集部のスタッフは、彼らにとっては最終号となる1993年新年号(1992年12月8日発売)の編集作業を、当時飯田橋の五軒町寄りにあった角川メディア・オフィスの職場で、92年の11月末ぐらいに校了し、その足で神保町に集結し、すぐさまメディアワークスの社員となって新創刊誌『電撃王』2月号(1993年1月8日発売)の編集作業に取り掛かった。
借りたばかりの新社屋にはまだ机も椅子もなく、床にじかに置かれた電話機からクライアントやライターに電話をかけて、転職の挨拶などをした。管理部門も編集部も、部門単位でそれぞれのスケジュールに従って角川メディア・オフィスを去り、新会社に移籍していった。しんがりは経理部長と経理部員の2人で、全員の辞職を見極めてから新会社に合流した。経理部長は元早稲田大学の探検部出身、まことに胆力のある人物で、ぼくはずいぶん助けられた。
しかし、このやり方はいきなり大きく会社が立ち上がったことによる資金問題、一挙に辞めることによる法的問題、角川書店と取引のある取次、印刷会社、製紙会社、あるいは金融機関が、どうぼくたちに正対してくれるかなどの懸念、実にさまざまな困難な問題があった。
これらの問題に立ち入ると、この1章でも足りなくなるので、それぞれ簡単にその対応を記せば、資金については歴彦の自己資金1億円(と社員からの出資)では足りず、歴彦の人脈とぼくたちのゲーム業界人脈を頼りに資本金集めした結果、4億8千万円の資本金で、1年程度の資金猶予ができた。
法的問題についてはのちに角川グループホールディングスの監査役を務めた渡邊顯弁護士が、優秀な弁護団を組んで指導してくれることになった。角川書店という大看板を敵に回してしまった以上、取次・書店・印刷・用紙・銀行との関係に不安があった。これには出版業界の老舗中の老舗である主婦の友社が販売を請け負うことで、大方解決できた。当時の主婦の友社の石川晴彦会長は、角川歴彦の親友で、歴彦の懇請に応じた形だった。
そういう困難を乗り越えながらかろうじてメディアワークスはスタートし、翌年1993年の夏には、これも予期せぬ角川春樹のコカイン事件があって、思わぬ展開で角川歴彦が角川書店に社長として復帰することになった。しばらく歴彦はメディアワークスの社長を兼務するが、95年6月にぼくがメディアワークスの社長となる。
その間のもろもろは全部飛ばして、この連載のテーマに即して“時”の問題に絞って話を進めよう。1990年代半ばに始まる大きな変化の“時”を、ぼくたちだけではなく、ゲームとPCの出版を手掛けていた各社がどう過ごしてきたかに話を移す。