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2004年に登場した2つの携帯型ハードはゲーム業界の主戦場を大きく変えたというお話【佐藤辰男の連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第44回

 下記のうち1と2については第43回で書き記した。今回は3の携帯型ゲーム機について書こうと思う。

  1. ファミコンの登場
  2. プレイステーションの快進撃
  3. 携帯型ゲーム機が据え置き型ゲーム機を制す
  4. スマホゲームの時代

 しかし、その前にインターミッションとして、2の時代に次々にゲーム機が誕生しては消えていったことにも触れておこう。『ファミ通ゲーム白書2023』(角川アスキー総合研究所)に、1987年から2022年に至る“国内家庭用ゲーム市場規模推移”のグラフがあるので記載する。

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 このグラフはあくまで据え置き型ゲーム機と携帯型ゲーム機の国内市場推移で、2003年以降始まるPC系ネットゲームやフィーチャーフォンのソーシャルゲーム、2013年以降始まるスマホ上のゲームアプリの市場規模は含まれないので、注意が必要だが(要確認)、少なくとも2004年までの動きは、1996年をピークに下降している出版業界のグラフと同じように見える。

 すなわち、ゲーム業界も国内消費の減少の影響を免れなかったように見える。それも確かにあったかもしれないが、当面96年をピークとした市場の減退は、このころ発売されたハード群が次々と空振りに終わったことも関連するかもしれない。

 パナソニックの3DO REAL(1994年)、任天堂のバーチャルボーイ(1995年)、NINTENDO64(1996年)、セガのドリームキャスト(1998年)、SNKのネオジオポケット(1998年)、バンダイのワンダースワン(1999年)など据え置き型、携帯型にかかわらず市場でつまずくゲーム機が相次いだ。このなかでNINTENDO64のつまずきが目立った。

 スーパーファミコンの後継機であるNINTENDO64は、ソニーのワンツーパンチにはさまれて、大きく開花できずに終わった。

 スーパーファミコンの売れ行きは、プレイステーションが発売されても衰えなかったから、油断したわけでもないだろう。しかし、NINTENDO64の投入はプレイステーションの2年遅れの1996年6月で、その間セガのセガサターンとプレイステーションが激しい値下げ合戦を演じていた。

 発売開始時39,800円だったプレイステーションの値段は、NINTENDO64が投入された6月に合わせるかのように19,800円にまで下げられ、25,000円のNINTENDO64に価格優位はなかった。1996年は、プレイステーションが1年間で405万台も売れて、NINTENDO64の出端をくじく。

 そもそもNINTENDO64は、サードパーティからのソフト供給が少なかった。ハイスペックの仕様で、サードパーティが手を出しづらかった。対して、ソニーはゲームの開発環境の整備に気を使い手厚くサードパーティをフォローした。その結果、発売3年間のソフトの数の差はプレイステーション:NINTENDO64で563:103だったと、『日本デジタルゲーム産業史 増補改訂版』が紹介している。

 スーパーファミコン時代からゲームの高度化が進み、NINTENDO64でも再生にリードタイムのないマスクROMにこだわった任天堂のゲームソフトの販売価格は、高止まりしていた。それに対しCD-ROMは安価でプレスもアっという間に終わる。圧倒的に記憶容量も大きく、ユーザーへの提供価格は抑えられた。任天堂の嫌った読み込時間の遅さは、工夫で回避できたからユーザーはソニーを選んだ。

 しかしこの任天堂のつまずきによって、思想の転換から次のDS・Wiiの時代を引き寄せたとも言える。

【3:携帯型ゲーム機が据え置き型ゲーム機を制す】

 2000年に発売されたプレイステーション2は、2002年には日本国内1,000万台を突破した。その後2005年に世界で販売台数1億台を達成して据え置き型ゲーム機の圧倒的な覇者となった。

 プレイステーション1、2で据え置き型ゲーム機市場をリードしたソニーが、携帯型ゲーム機でも覇権を握ろうとしたか、2003年5月のE3(世界最大のゲーム業界の展示イベント)において、携帯型ゲーム機を翌年に発売すると発表した。

 ステージに立ったソニー・コンピュータエンタテインメント社長の久夛良木健は、これから発売する携帯型ゲーム機は、プレイステーションとほぼ同等のCPUと高精細の液晶ディスプレイを搭載し、ゲームは光ディスクで供給する、“21世紀のウォークマン”と発表した。

 のちのインタビュー(後藤弘茂のWeekly海外ニュース、2003年8月29日)でその意味を、音楽を高音質で携帯できる感動と比べ「やはり感動するのは、16対9の画面で字幕もきちんと読める高品質映像が実現できた時。2時間の映画を5本くらい飛行機の上で見てしまいたくなるレベルのものがほしい」と語っている。

 これだけ聞けば携帯型ゲーム機ではあっても強力な動画再生能力と高音質のスピーカーを備えた、映画や音楽を戸外に持ち出せる携帯マルチメディア機のイメージだ。これこそソニーの行く道だ、と思わせる内容だった。

 ゲームボーイ(1989年)で『ポケモン』、『テトリス』を大ヒットさせた任天堂は、このころ発売してまだ2年しか経過していないゲームボーイアドバンス(2001年)がよく売れていた。携帯型ゲーム機でほぼ独占状態だった任天堂は、ここで後塵を拝するわけにはいかなかった。任天堂は、ソニーに対抗するようにニンテンドーDSの発売に踏み切った。

 2004年12月2日にニンテンドーDSが、同年12月12日にプレイステーション・ポータブル(PSP)が、相次いで発売された。

 ニンテンドーDSは、PSPとはまったく違う思想から生まれた。“ゲーム人口の拡大”がテーマで、人とゲーム機との接点をやさしくし、ソフトは過去にゲームが扱ってこなかったテーマを積極的に取り上げた。2画面タッチパネル式で指やペンで入力、音声入力もできた。“Touch Generation”を謳い、これまでにないタイプのゲームとして、犬と触れ合う『nintendogs』(2005年)シリーズや『東北大学未来科学技術共同研究センター川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のDSトレーニング(脳トレ)』(2005年)などがあった。

 直感的でわかりやすいユーザーインターフェースが日ごろゲームをしない女性層や年配層をもユーザーとして取り込んだ。ソフトの値段も安く抑えられた。

 DS全盛のころ、横浜の有隣堂本店で、ぼくは大々的にDSを陳列しているのを見た。どうやら書店での販売を通じて一般客へのアプローチを模索していたようだった。中古ゲームショップ全盛期でもあったから、定価販売が常識の書店流通を、任天堂が試した可能性もある。キラータイトルとしては『おいでよ どうぶつの森』(2005年)、『NEWスーパーマリオブラザーズ』(2006年)などがあった。

 発売翌年の2005年にはまずDSが大ブレイクし、1997年以来下降気味だった国内市場の拡大に寄与した。2006年にはニンテンドーDS Liteも発売され、ハードも猛烈に売れたが、ミリオンヒットタイトルも7本に上った。

 一方PSPは、スタートダッシュで供給につまずき後れを取ったが、2005年から『モンスターハンターポータブル』シリーズが発売され、PSPの普及を牽引した。

 もう一度『ファミ通ゲーム白書』の市場の推移にご注目いただきたい。混迷の時を過ぎ2004年から2007年にかけ、再びゲーム機市場を2つの携帯型ゲーム機が力強く上昇を始める。主戦場は据え置き機から携帯型ゲーム機に移った。

 ちなみに任天堂の2024年3月期の第3四半期決算では、国内累計販売台数がこれまで第1位だったニンテンドーDSの3,299万台をSwitchが抜いた(3,334万台)が、世界販売台数ではDSシリーズ1億5,402万台に対しスイッチは1億3,936万台で、まだ抜かれていないと公表されている。

 さて、携帯型ゲーム機2大プラットフォームの激突のあとは、2005年のマイクロソフトのXbox 360、2006年のソニーのプレイステーション3、任天堂のWiiの3大プラットフォームの激突が待っていた。
【毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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