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ゲーム業界に訪れたイノベーションの“とき”。まずはファミコンからプレステまで【佐藤辰男の連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第43回

8-2 ゲーム業界に訪れたイノベーションの“とき”

 アニメに次いで、“青く見えた隣の芝生”として、ゲーム業界に話を移そう。

 ゲーム業界に訪れたイノベーションは、アニメ業界同様、頻繁でダイナミックだった。日本の消費市場を襲った不況に抗うように、(あとで示すように)市場規模も年を追うごとに拡大した。ここでは、日本のデジタルゲームの歴史の転換点となるイベントと人物に焦点を当て、解説する。

 手引書となったのは、日本のゲーム業界の市場規模を、年鑑のかたちで毎年発表している『ファミ通ゲーム白書』(角川アスキー総合研究所)と『日本デジタルゲーム産業史 増補改訂版 ファミコン以前からスマホゲームまで』(小山友介、人文書院、2020年)など。まず転換点となるイベントは、

  1. ファミコンの登場
  2. プレイステーションの快進撃
  3. 携帯型ゲーム機が据え置き型ゲーム機を制す
  4. スマホゲームの時代

 以上4つの事柄にあわせて市場の成長の軌跡をたどる。今回(第43回)は1と2を、第44回で3、第45回で4について触れようと思う。

【1:ファミコンの登場】

 ファミコンの登場については、このコラムで十分語ってきたと思うが、ソフトから見たときのファミコンの優位性は、

  1. それまで主流だったアーケードゲームのキラータイトルがこぞって結集した
  2. アメリカから流入したPCゲームカルチャー(RPG・AVG・SLG)が日本で開花するプラットフォームとなった(※)
  3. 『スーパーマリオブラザーズ』、『ゼルダの伝説』に代表される任天堂オリジナルの名作が誕生した
※具体的には、アップルⅡで遊び倒した経験から堀井雄二が『ポートピア殺人事件』、『ドラゴンクエスト』をファミコンで実現し、シブサワコウがPCから『信長の野望』をファミコンに移植したことなど。
 ファミコンは、それら多様なゲームカルチャーを受け止めた、“始まり”にふさわしいプラットフォームだった。グループSNEの安田均は前にも紹介した『安田均のゲーム紀行』(新紀元社、2020年)で、「かつて1980年代の同時多発的に起った新ゲームの拡散(ぼくはそれをゲームの<カンブリア爆発>と考えている」と紹介したが、その爆発が凝集したところにファミコンがあったのだと思う。

 また、一私企業がデファクトスタンダードを握りプラットフォームを提供し、製造費・ロイヤルティーを徴収するというビジネスモデルをゲームの世界で確立したのは、ファミコンが最初だろう。

 ファミコンのスーパースター・マリオの誕生について少し寄り道を。

 ゲーム評論家・編集者・翻訳家の多摩豊の著書を、ぼくはKADOKAWAの社史で紹介したので採録する。『コンプティーク』のエッセーの常連だった多摩豊は35歳の若さで膠原病に倒れて1997年に逝去した。

 「多摩豊の『テレビゲームの神々 RPGを創った男たちの理想と夢』(光栄、1994年)はスーパーマリオ開発前の任天堂・宮本茂が、ロールプレイングゲームに接した様子を描いていて面白い。絶えず新しい遊びの研究を怠らなかったという宮本には『RPGはめんどうくさい遊び』としか思えなかった、という。

 『キャラクターをつくったり謎を解いたりする部分にはまるでスピード感がなかったし、なにより、地図を書きながらゲームを進めるというのがどうしようもなくめんどうくさく思えた。ゲーム全体で見てもテンポが遅かった。こんなもののどこがおもしろいのか』と宮本に感想を語らせている。

 しかし、『ウルティマ』から始まり宮本はPCのRPGを遊び続け、『RPGにはRPGの面白さがあるようだ』と思うようになったという。同書はPCから入って『ドラゴンクエスト』に行きつく堀井雄二と、ワンコインでゲームの面白さを伝えなければならないアーケードから入って『スーパーマリオブラザーズ』に行きつく宮本茂の対比が面白いのだが、『スーパーマリオ』はRPGの謎解きや宝探しや成長の要素を取り込んでゲームのレベルをさらに高めることに成功した、というのが多摩豊の見解だ」

 1人のクリエーターのなかでいろいろなカルチャーが融合して新しいものが生まれる過程を描いた、面白い記述だった。この人が生きていたら、いまのゲーム業界をどう見たか、聞いてみたかった。
 
 さて、ファミコンの延長に後継機であるスーパーファミコンが登場した。スーパーファミコンは、16ビット機でファミコンと互換性がなかった。ローンチタイトルの『F-ZERO』『スーパーマリオワールド』は、これまでにないスピード感や新しい機能を見せてユーザーに歓迎された。その後『スーパーマリオカート』『スーパードンキーコング』などの自社タイトルと『ドラゴンクエストV』『ドラゴンクエストⅥ』『ファイナルファンタジーⅣ』などのサードパーティのキラータイトルもハードの普及に貢献した。

【2:プレイステーションの快進撃】

 90年代前半のゲーム業界の成長の右肩上がりを牽引したのはスーパーファミコンだったが、その全盛期の1994年に、ソニー・コンピュータエンタテインメントからプレイステーションが発売され、けん引役が取って代わられた。

 プレイステーションという名前は、ソニーが任天堂のスーパーファミコンに、アダプターのかたちで提供するCD-ROMマシンの名前だった、というエピソードが、『証言。『革命』はこうして始まった プレイステーション革命とゲームの革命児たち』(赤川良二、エンターブレイン、2011年)という本に載っている。

 ソニーが持ち込んだこの企画は製品化に向けて動いていたものの、任天堂の仕様変更により断念せざるを得なかった。ソニーは独自にゲーム機として発売することにした経緯がつづられている。プレイステーションを発売するために、1993年11月にソニー・コンピュータエンタテインメントが設立された時点においても、一強の任天堂を凌いでプレイステーションが成功すると考える人は皆無だったと、著者の赤川は“はじめに”で記している。

 プレイステーションは高解像度のリアルタイム3DCG表示を実現し、記録媒体にはCD-ROMが採用された。

 家庭用ゲーム機はまだ2Dの時代で、3DCGをリアルタイムで生成しコントロールできるようになったのは画期的だった。アーケードゲームの世界では、1993年8月開催のAMショーで世界初の3DCG格闘ゲーム『バーチャファイター』がお披露目され、業界に衝撃を与えた。

 家庭用ゲーム機発売元としてライバルであったセガのこの一投が、皮肉にもプレイステーションの幸福なスタートの追い風になった。アーケード界で、セガに唯一3DCGで対抗できたナムコが、対抗するように『リッジレーサー』でプレイステーションデビューを果たすことになったからだ。

 その後プレイステーションの高機能にほれ込んだサードパーティとしてスクウェアが『ファイナルファンタジーⅦ』を、エニックスが『ドラゴンクエストⅦ』を、といった具合にスーパーファミコンで人気だったキラータイトルのナンバリング作を持ってソニーに乗り換えた。

 ソニーがオープンライブラリーやマニュアル、ソースコードを用意し、サードパーティが参入しやすい環境を整えたことも後押しとなった。
 
 2000年に発売されたプレイステーション2はDVD再生機能を持っていた。ローンチタイトルの『リッジレーサーⅤ』『ストリートファイターEX3』ももちろん魅力的だったが、当時大ヒットした映画『マトリックス』のDVD発売が同時期で、PS2はDVD再生機より格段に安かったから、『マトリックス』見たさに買った人も多かった。

 発売に先駆けて立ち上げたプレイステーション・ドットコムで、本体の予約販売も開始されサーバーがダウンするほどの人気となった。プレイステーション2は発売3カ月足らずで累計出荷台数200万台を突破し、その後世界でもっとも売れたゲーム機のひとつ、となった。

 CD-ROM媒体はゲーム流通をも変えた。

 それまで任天堂のソフトは、かるた・トランプの時代からある初心会という1次問屋の組織(最盛期は70社ほどあった)によって流通していた。小売店は、1次問屋からさらにその下の2次問屋、さらに3次問屋から仕入れなければならなかった。

 サードパーティーは製造を任天堂に委託しなければならず、ファミコンソフトのROMカセットが製造に2カ月かかることが問題だった。メーカーは問屋との間で発売3カ月前までにはおおよその発注量を決めなければならなかった。

 ゲームの完成形が見えない段階での需要予測は困難だった。それにもかかわらず取引条件は“流通の各段階で完全買い取り返品なし”だったから、結果、極端な品不足や過剰生産がたびたび起こった。

 やがてこの需給の不一致に商機を見いだし、投機的なビジネスをする初心会メンバーや2次問屋などが出現した。たびたび引用している『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)は

 「初心会の一部の会員企業が二次問屋や小売店に対し、破格の価格で商品を卸すことがあり、これを問題視した任天堂は1997年に初心会を解散した」

 とその解散を控えめに紹介している。前章で紹介したゲームとおもちゃの小売り環境の変化が初心会解散を促した。

 ソニーのゲームソフトは問屋を介さず直販で、しかもマスクROMと違って、CD-ROMは、発注から製造まで時間をとらない(マスクROMは製造に2カ月かかった)から、お店が注文してから1週間~10日ほどで納品され、発売後の品切れにも迅速に対応し、小売店の在庫負担は劇的に減った。

 傘下にCD工場を持ち、音楽業界の機能会社として優秀な物流会社のジャレード(現・ソニー・ミュージックソリューションズに統合)のおかげだった。バンダイ系のハピネットも従来の玩具店には活用された。これは劇的な変化で、ゲーム業界の流通を変革した。ここで音楽業界の極めて合理的な流通の仕組みを本当は深堀りしたいのだが、主題とは関係ないので、今回は諦める。
【毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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