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「もう闘わなくていいのです。どうか安らかに眠ってください」日本ファルコム加藤会長とともに作ったメディアミックス時代を元コンプティーク編集長・佐藤辰男氏が振り返る

文:電撃オンライン

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 昨年12月に逝去された日本ファルコム会長の加藤正幸氏。3月14日には業界でかかわりがあった人々や、多くのファンが氏を偲ぶ場として“お別れの会”が執り行われました。

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 本記事では式典内での、元『コンプティーク』編集長・佐藤辰男氏による加藤氏へ向けた弔辞を掲載します。

デジタルエンターテイメントの創成期があった時代、その先頭を行っていた加藤会長の偉業


 謹んでご逝去を悼み、お別れのご挨拶を申し上げます。

 (加藤さんの)映像を拝見して、加藤さんと同じ時代を過ごした懐かしい日々を思い出しております。

 こうして見ると、加藤さんにはつくづく助けられたなと。できれば明るい話をしたいですが、加藤さんの後半生は、病との闘い。この話は避けられないなと思います。

 もう15年も前になりますが、あるとき、加藤さんからメールをいただきました。

 そこには、腎臓の移植手術を控えて、今ホテルに滞在していると記されていました。何度かやり取りを交わすなかで、その印象は、何か遠いところと細い線で繋がっているような心細さと、とても切実な思いがありました。

 しかし、加藤さんは難しい手術を成功させ、無事に帰還されました。よく耐えたと思いましたが、それから、がんとの長い闘いがはじまりました。

 20年前から、毎年年末に加藤さんが会長を務める“JCGA(注1)”の忘年会でお会いし、また数年に一度は立川に出向いて、インタビューをしたり食事をしたりという関係が続きました。

注1:日本コンピューターゲーム協会のこと。

 お会いするたびに感じたのは、病と闘う加藤さんのすさまじい精神力、諦めない心、ときににじみ出る苦いユーモアのようなものでした。

 JCGAのパーティーの挨拶では、先ほどの映像にもありましたけれども、毎回加藤さんは自分の病気をネタに、若い聴衆を笑わせていました。

 病を克服しようという強い意志に裏打ちされた、その心のありようというのは、とても素敵でした。

 しかし、昨年12月10日の忘年会には、加藤さんの姿はありませんでした。そして、12月15日朝3時に逝去され、78歳の生涯を閉じられました。

 「もう闘わなくていいのです。どうか安らかに眠ってください」と、今は加藤さんにメールを送ってやりたい気持ちでいっぱいです。

 加藤さんが1981年に日本ファルコムを創業したきっかけになったのは、ある展示会で“Apple II(注2)”に触れて感動し、パーソナルコンピュータという新しい概念の到来を感じたからだ、と聞かされました。

注2:アップル社から1977年に発売されたパーソナルコンピューター。

 加藤さんは一世代前のエンジニアですから、個人向けにモニターとキーボードがコンパクトにセットされている、その形がとても衝撃だったと言っていました。

 日本でも次々にパソコンが発売され、パソコン雑誌が生まれました。パソコン雑誌からプログラミング言語の知識を学び、そこに掲載されているベーシックや機械語のリストを打ち込んでゲームを楽しむ、あるいは、カセットに入ったプログラムで遊ぶことが潮流となりました。

 小学生の中学年ぐらいの団塊ジュニアが“マイコン少年”と言われ、30代に達した団塊世代以上の人が、一応ビジネスとしてゲームを楽しむ。やがてその関係が、受け手と送り手の関係となって、次々にソフトハウスが誕生すると。そういう時代の先頭に、加藤さんがいらっしゃいました。

 僕はといえば、1983年に角川書店で『コンプティーク』というパソコン雑誌を創刊しました。

 その表紙に『ドラゴンスレイヤー』だとか『ザナドゥ』、『イース』といった、加藤さんがお作りになった作品を掲げるだけで、雑誌が飛ぶように売れるという時代がありました。

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 加藤さんは、ゲーム音楽や、アニメ、小説、コミック化などに大変興味を持たれて、ともに『コンプティーク』を舞台に、さまざまなメディアミックスを手がけてくださいました。

 それによって、角川の私の雑誌も、新しいメディアミックスの時代を加藤さんと一緒に作ったと、そんな思いを抱いております。

 僕にとって、1980年代~90年代を加藤さんとともに過ごしたことは、とても幸せな時代を過ごせたと思っています。

 みなさんよくご存知のように、日本ファルコムは才能の梁山泊(注3)で、天才プログラマーの木屋善夫さんですとか、ゲームミュージックの古代祐三さん、それからアニメーション監督の新海誠さんといった才能が次々に入社しました。

注3:梁山泊(りょうざんぱく):中国の故事成語で、豪傑や野心家などが集まる場所のたとえ。

 パソコンショップやソフトハウス、ゲーム雑誌の編集部などが才能のたまり場となるパターンは、この時代にあちこちで見られた現象です。『コンプティーク』の編集部からも、ライトノベルや漫画の新しい才能が育っていった時代でした。

 僕はいつも思いますけれども、ある時代のフランスに印象派の画家が次々に生まれたり、あるいは、ある時代のアメリカにジャズのミュージシャンが次々に生まれるように、ある時代に才能が固まって輩出されることがある。

 まさにそういったデジタルエンターテイメントの創成期があの時代にあって、その先頭に加藤さんがいらっしゃった。そんな思いを、今でも抱いています。

 (加藤さんへ向けて)あなたを追って、これからも続々と新しい才能が生まれると思います。日本ファルコムという梁山泊は、近藤社長がしっかりと受け継ぎ、これからも堅い“加藤イズム”を継承すると思います。ですから、安らかにお眠りください。そして、後進を見守ってくださることをお願い申し上げます。

 加藤さん、さようなら。またお会いできる日を楽しみにしています。

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