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ファミコン直前期の日本のおもちゃ市場はどうだったのか?【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第13回

5-1 ファミコン直前期の日本のおもちゃ市場

 ファミリーコンピュータ、いわゆるファミコンの直前期(本コラムでは70年代後半から1982年まで)、すなわち団塊の世代とともにあった、戦後から続く好景気が終盤を迎えたころの業界の様子を書いておこう。団塊世代はすでに成人し、これからその子どもたち(団塊Jr.)が生まれようという時代だ。

 たびたび引用している『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)に、日経流通新聞調べによる“玩具卸売業1976年度の売り上げランキング”が掲載されていたので転載する。この時代の業界の趨勢(すうせい)がわかる。

 1976年度のランキングはこうだ。

 1位 ポピー……156億円
 2位 トミー……142億円
 3位 ツクダ……129億円
 4位 タカラ……129億円
 5位 浅草玩具……99億円
 6位 バンダイ……93億円
 7位 河田……84億円
 8位 三ツ星商店……73億円
 9位 米澤玩具……66億円
 10位 ブンカ……65億円

 ポピーが彗星のように現れトップを取っている。ポピーの誕生物語はすでに書いた。この会社はキャラクター玩具をジャンルとして定着させるのに貢献した。そしてトミーとタカラは定番の強みを発揮し、旧製問(東京輸出玩具製問協同組合)を尻目に成長した。前に『昭和玩具文化史』から「戦後の玩具輸出の8割を製問加盟の大手5社、増田屋齋藤貿易、東京玩具貿易、アルプス商事、マルサン商会、米澤玩具で占めていた」という一文を紹介した。戦後の輸出全盛・製問全盛の時代から様変わりして、国内市場開拓に成功したこの3社が大手として君臨する時代になった。

 伝統的な製問のなかで気を吐いてランクインしているのは、アダルトゲーム、ホビーなどの新ジャンルに対応できた会社だ。ツクダには『ルービックキューブ』、『スライム』、『オセロ』のヒットがあった。河田(現・カワダ)、三ツ星商店、ブンカは、年齢の高い層向けのゲームやホビーで時代の波に乗った。

 かつては“囲碁・将棋・麻雀”といった大人対象のゲームの売り場に、ジグソーパズルやバックギャモン、インテリアにもなる木製のパズルなどが加わり、デパートでは“アダルトゲームコーナー”と称し展示するようになった。ジグソーパズルはパンダやモナリザの来日を機に火がついた。団塊世代とともに生まれた、まさにアダルトな市場だと言えた。

 ホビージャパンが、シミュレーションゲームマガジンと銘打ち『タクテクス』を創刊するのは、1981年12月。デイブ・アーンソンとゲイリー・ガイギャックスが以前からあった戦場シミュレーションゲームにファンタジー小説の世界観を持ち込んだテーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』を発売するのが1974年で、その日本版の『赤箱』を新和が発売するのは、1985年になってから。

 コイン式ビデオゲームであるアタリの『ポン』が、サニーベールの酒場に初めて設置されたのが1972年、『ブロック崩し』の登場は1976年、カセット式の家庭用TVゲーム『VCS』の登場は1977年、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが『アップルⅡ』を世に出すのも1977年、喫茶店やらゲームセンターで『スペースインベーダー』がピコピコと動き出すのが1978年、これがアメリカに上陸し、行き詰まりかけていた『VCS』を蘇らせたのが1980年だ、前年の1979年にはNECのPC-8001が発売された。コンピュータRPG『ウィザードリィ』『ウルティマ』が1981年。アメリカで起きたことも日本で起きたこともごたまぜに列挙したが、そういう時代だった。

 ファミコン直前期の70年代終わりから80年代に至るこの時期の状況を、安田均はその著書『安田均のゲーム紀行1950-2020』(新紀元社、2020年)で、

 
「かつて1980年代の同時多発的に起った新ゲームの拡散(ぼくはそれをゲームの<カンブリア爆発>(注釈)と考えている)」

 と紹介している。カンブリア爆発とは、言い得て妙だ。安田言うところのカンブリア爆発は、ゲームやコンピュータに留まらず、アニメの世界、そしてマンガの世界にも波及し、おたくの時代の到来を告げた。
 
 その初めに『ヤマト』があって、『ガンダム』が生まれた。

 TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の第1回放映は1974年10月、半年2クールにかけて放映されたものの視聴率は終始低かった。そのため終わり方が尻切れトンボで、熱狂的なファンの不満がたまり、映画化への希望が高まった。ファンの後押しで1977年に『宇宙戦艦ヤマト(劇場版)』が公開され、大ヒットした。

 TVアニメ『機動戦士ガンダム』の放送は1979年4月から。ガンダムを企画した一人でサンライズ創業メンバーの山浦栄二は、『宇宙戦艦ヤマト』の成功をヒントに
「ハイターゲットに絞って30万から40万の熱狂的なファンをつかめば、それで充分商売になると思った」と『ガンダム・エイジ ガンプラ世代のためのガンダム読本』(洋泉社、1999年)に発言を残している。

 『機動戦士ガンダム』のTV放送も『宇宙戦艦ヤマト』同様不人気で、1年間52話の予定を急遽43話で強制終了せざるを得なかった。当時主流だった低年齢層の視聴者には理解できない内容だったから、この成り行きは止むを得なかったが、“おたく”の熱気はすでに存在していた。『宇宙戦艦ヤマト』を契機に生まれた何誌ものアニメ雑誌が次々特集し、『宇宙戦艦ヤマト』同様、『機動戦士ガンダム』に劇場アニメ化への機運が生まれた。

 バンダイ模型がガンダムのプラモ化に着手したのも、「とにかく出してみよう」程度の意識で、ヒットするかどうかは半信半疑だったと、バンダイグループのコンサルタントをしていた土屋新太郎が、その著書『キャラクタービジネス : その構造と戦略』(キネマ旬報社、1995年)で伝えている。

 『機動戦士ガンダム』の模型化第1弾『1/144 ガンダム』と『1/100 ガンダム』の発売は1980年7月で、TV放映が終わって半年も経っていた。発売後まもなくは顕著な動きはなかったが、9月にガンダムのライバル機である『1/144 シャア専用ザク』が発売されてから動き始め、劇場公開が発表された翌年の1981年正月商戦で爆発、どの店も売り切れとなったと『日本プラモデル六〇年史』(小林昇、文春新書、2018年)に記されている。

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 『キャラクタービジネス その構造と戦略』のなかで土屋は、『ヤマト』や『ガンダム』のようなキャラクターを“遅効キャラ”と呼んだ。TV放送はすでになく劇場映画3部作の間隔も空いてファンは飢餓状態に置かれた。その間に“おたく(第1世代は1960年前後に生まれた団塊の世代に遅れた谷間の世代といわれた)”のエネルギーが蓄積され、どこかで沸点に到達する、というほどの意味か。

 ガンプラが画期的だったのは、HGシリーズ(1990年)あたりから。スナップフィット化が進み接着剤が不要となり、また多色成形という新技術の導入で塗装がなくても高いクオリティで組み上げられるようになったことだ。それによって、プラモ作りのハードルが著しく下がった。ぼくでも失敗せずに完成できるようになった。それはともかく、『ヤマト』が引き金になって、『ガンダム』が生まれ、アニメ雑誌、アニメショップ、マンガ専門店などが生まれていった。

 デジタルゲームに目をやると、いわゆるLSIゲーム(電子ゲームとも呼ばれる)が生まれたのも、このころ。アニメやアダルトゲームが大人のものなのに対し、このジャンルからそろそろ団塊の世代の子どもたちが登場し始める。市場をリードしたのは1980年の任天堂の『ゲーム&ウオッチ』だった。

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▲『ゲーム&ウオッチ』
 少し寄り道を許してほしい。この時代、ぼくが個人的に好きだったおもちゃが、米澤玩具がアメリカから輸入販売した『サイモン』(1978年)だ。直径20~30cmの円盤型UFOのかたちをしていて、表面は赤、青、黄、緑の4色に切り分けられたケーキみたいなプレートになっていた。これを押すと、同じ年に公開された映画『未知との遭遇』のUFOが発する電子音みたいな音がした。

 プレイヤーは、『サイモン』が発する音と光をなぞってプレートを押す。最初はひとつ、そしてふたつ、みっつと、ひとつずつ増えていく。6つか7つあたりで記憶力が怪しくなる。失敗するとブーっと鳴ってゲームオーバー。単純だが新規性があって、パーティゲームとして秀逸だった。この『サイモン』の発明者はラルフ・ベアといって、世界で初めての家庭用TVゲーム機を開発した人で、また後で触れることになる。

 1978年のバンダイ『LSIベースボールゲーム』も思い出深い。手帳ぐらいの大きさの盤上に球場が描かれていて、外野や各塁とバッテリー間に発光ダイオードが埋め込まれていた。ピッチャーの投げる球筋はいくつかの発光ダイオードが順番に光るだけで表現されていて、タイミングよくバットを振る(バッターボタンを押す)と、ヒットになったりファウルになったり、ホームランになったり、あるいは空振りしたり、というたったそれだけなのだが、これが面白かった。いままでにない新しい遊びだった記憶がある。

 LSIゲームは、ラジコンカーやキャラクター玩具などのヒット商品同様に、数限りない会社が市場に商品を投入し、激しい競争を演じた。バンダイ、タカラ、トミー、エポック社、学研、カシオ計算機、ほか多数。この当時たぶんぼくはまだ『玩具通信』の記者だったが、聞いたこともない日本法人が、やっぱり聞いたことのない香港のLSIゲームをひっさげ登場し、正月が終わってみればいつの間にか撤退していた……などということもあった。

 LSIゲーム人気は、1982年の年末商戦全体の25%の売り上げを占めるほどの爆発ぶりだったが、正月が過ぎてみれば、業界全体がかつてないほどの過剰在庫を抱えて終わった。最終的な勝者は、任天堂の『ゲーム&ウオッチ』で、アーケードゲームで人気を博した『ドンキーコング』の投入が当たった。そして翌年、やはり任天堂の“ファミリーコンピュータ”の登場で、すべてが変わった。

[IMAGE]【第20回までは毎日更新! 以降は毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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