連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第16回
人気が出なかった『コンピュータースペース』の販売権を発売元となってくれた会社に売り、その資金で数人の仲間と新しく作った会社がアタリだ。会社設立は1972年6月。間を置かず発売したのがコイン式ゲーム『ポン』。前の失敗を踏まえ“片手でビールをあおりながら、もう片方の手で遊べる至極簡単なゲーム”だった。この筐体を近所の居酒屋に置いたところ、たちまち人気が出て機械からコインがあふれ出る事態になったというエピソードは有名だ。
『新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防』(相田洋/大墻敦、NHK出版、1997年)のなかのインタビューでブッシュネルはこの『ポン』の仕様が自分のオリジナルであるかのように語っているが、これにも先行するひな形があった。
1972年9月にマグナボックスから発売された『オデッセイ』は、カートリッジを交換して遊べる世界で最初の家庭用TVゲーム機だった。『ポン』はそのなかの『テーブルテニス』そのものだ。
『オデッセイ』は、1966年ニューヨークのとあるバス停で友だちを待っていたラルフ・ベアが、ふと閃いた“TVにつないでゲームを遊ぶことができる機械”のアイデアから始まった。のちにTVゲームの父としてアメリカ国家技術賞を受賞した彼は、閃いたそのときのことを「まさにエウレカの瞬間だった」と語った。
このアイデアをもとに彼は4ページの仕様書を書いた。企画は巡り巡ってラジオ・テレビメーカーのマグナボックスに拾われ、発売された。カートリッジといってもROMを読み込んでプログラムを実行する仕組みではなく、配線の変更でいろいろゲームができるようになっていた。別売りのカートリッジもあった。
ブッシュネルが1972年の春に発売前のマグナボックスのプライベートショーでこれを見て、真似して『ポン』を作ったという話をWebでは見かけるのだが、実際マグナボックスはアタリを特許侵害で訴えている。アタリはこれに対し法廷外で和解金を払ったというのだから、パクったのは事実だったのだろう。『オデッセイ』の『テーブルテニス』は、ブッシュネルの言うところの“片手にビールを持って、空いた手でダイヤルを回すだけで遊べる単純なもの”だった。
『ポン』は大ヒットしたが、残念ながら偽物が量産された。1973年には偽物を含めて10万台売れたがそのうち9万台はまがいものだった。つまり本物の『ポン』の販売台数はたった1万台だった。『ポン』の特許申請と商標権が通ったころには人気は下火に。この年ブッシュネルは日本に進出しアタリジャパンを設立したが、これも程なく頓挫し、アタリは倒産寸前となる。
アタリは1974年に株式の半分以上をワーナー・コミュニケーションズに売り、その経営参加を認めた。そして1975年に『ポン』だけが遊べる家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』を開発。LSIが値下がりしたことで『オデッセイ』より安価な値付けを実現した。これを百貨店のシアーズが独占販売し、15万台を完売、アタリは一息つくことができた。
アタリにとっての次の一手は、カートリッジ交換式の家庭用ゲーム機を発売すること。それしか企業再生の道はなかった。
ブッシュネルが家庭にTVゲーム機を送り込もうと資金集めに苦しんでいるころ、アタリに出入りしていたのがAppleを創業したスティーブ・ジョブズだった。
1974年、1年半で大学生活に飽きた19歳のジョブズは、当時人気急上昇中のアタリに技術作業員として雇われる。サンダル履きでルンペンのような恰好をし、ろくにシャワーも浴びないから嫌なにおいがする。周囲から疎まれたジョブズは、独り夜間勤務だったという。
あるとき、ジョブズは勤め人でありながら、インドに行くと言い出す。ヒッピーの間で有名な導師に会いにインドに行きたいから、旅費を援助してくれと上司に申し出た。上司はヨーロッパに仕事を作ってやり、旅費を負担してあげた。こうしてジョブズはヨーロッパ経由でインドに旅立つが、その旅は散々だったようだ。1975年早々には帰国しアタリに復職する。
それにしてもアタリとは、どれだけゆるい会社だったのか。アタリの工場で働くのはヒッピーばかりで工場内はマリファナのにおいが立ち込めていたというし、役員会議はいつもジャグジーでわきあいあいとやっていたらしいから、当時のこの会社のゆるゆる感が伝わってくる。
ジョブズの話をいったん置いて、アタリを中心にした70年代のデジタルゲーム業界に話を戻そう。
1976年の初頭には、ゼネラル・インスツルメント社が、ゲーム専用のチップを発売し、この値段が5~6ドルと劇的に安かったから、7社が安価なTVゲームを発売した。さらに8月にはフェアチャイルド・セミコンダクターが、初めてのカラーでカートリッジ交換式のTVゲームを発売し、アタリを脅かした。先ほど、アタリはカートリッジ交換式の家庭用ゲーム機を発売するしかないと書いたが、こうした周囲の動きがアタリを追い込んでいたからだ。
アタリは『Video Computer System』(通称VCS、のちにアタリ2600と名称変更した)を用意していたが、これを完成させる資金がなかった。そのためにアタリは、とうとうワーナー・コミュニケーションズに全株式を売却することでワーナーの完全子会社となって『VCS』製造に踏み切ることにした。ブッシュネルは会長として残り、部下のジョー・キーナンを社長に据えた。
1977年11月に『VCS』は40万台生産され、出荷の時を迎えた。この年のカセット式TVゲームの市場参加社はコレコ、RCA、ナショナル・セミコンダクター、フェアチャイルド社、アライド・レジャーなど多数。各社がクリスマスシーズンを固唾を飲んで待ったが、似たり寄ったりのゲームしかできないことを消費者に見透かされたか、波はやって来なかった。マグナボックスは発売する予定だった『オデッセイ2』の販売を取りやめた。アタリは大量の在庫を抱え、赤字に転落した。ワーナー側で買収の指揮をとったマニー・ジラードは、この事態に青ざめ、なんとかせよとブッシュネルに迫るが、ことごとく意見が対立する。
ジラードは、アタリには広告もマーケティングもない、R&D(研究開発)しかないと、不満をぶちまけた。ブッシュネルは、研究開発費を止めたら会社が弱体化すると抵抗する。いつまでも平行線で、結局ブッシュネルは1978年に解任されアタリを去る。ブッシュネルもキーナンも株を売却して億万長者になっていた。ブッシュネルは他人の金でギャンブルする気になれないと言い、キーナンは株を売ったら前のようになんとかしようという気が失せた、などとうそぶく始末だったから、この成り行きは仕方なかった。
さてこのころ、渋るブッシュネルにアタリ株を売却させたのは前項で紹介したセコイア・キャピタル創業者のドン・バレンタインだった。彼は『ホーム・ポン』に60万ドルの自己資金を投入した男で、会社を始めるときと会社を大きくするときの経営力は違うと考えていた。同じ人間のなかに両方の能力が備わっていることはめったにない、というわけだ。彼はビデオゲームがバーや家庭に入ることを高く評価しアタリに投資したが、経営者としてのブッシュネルの能力には見切りをつけていた。卓見だった、と思う。
『新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防』(相田洋/大墻敦、NHK出版、1997年)のなかのインタビューでブッシュネルはこの『ポン』の仕様が自分のオリジナルであるかのように語っているが、これにも先行するひな形があった。
1972年9月にマグナボックスから発売された『オデッセイ』は、カートリッジを交換して遊べる世界で最初の家庭用TVゲーム機だった。『ポン』はそのなかの『テーブルテニス』そのものだ。
『オデッセイ』は、1966年ニューヨークのとあるバス停で友だちを待っていたラルフ・ベアが、ふと閃いた“TVにつないでゲームを遊ぶことができる機械”のアイデアから始まった。のちにTVゲームの父としてアメリカ国家技術賞を受賞した彼は、閃いたそのときのことを「まさにエウレカの瞬間だった」と語った。
このアイデアをもとに彼は4ページの仕様書を書いた。企画は巡り巡ってラジオ・テレビメーカーのマグナボックスに拾われ、発売された。カートリッジといってもROMを読み込んでプログラムを実行する仕組みではなく、配線の変更でいろいろゲームができるようになっていた。別売りのカートリッジもあった。
ブッシュネルが1972年の春に発売前のマグナボックスのプライベートショーでこれを見て、真似して『ポン』を作ったという話をWebでは見かけるのだが、実際マグナボックスはアタリを特許侵害で訴えている。アタリはこれに対し法廷外で和解金を払ったというのだから、パクったのは事実だったのだろう。『オデッセイ』の『テーブルテニス』は、ブッシュネルの言うところの“片手にビールを持って、空いた手でダイヤルを回すだけで遊べる単純なもの”だった。
『ポン』は大ヒットしたが、残念ながら偽物が量産された。1973年には偽物を含めて10万台売れたがそのうち9万台はまがいものだった。つまり本物の『ポン』の販売台数はたった1万台だった。『ポン』の特許申請と商標権が通ったころには人気は下火に。この年ブッシュネルは日本に進出しアタリジャパンを設立したが、これも程なく頓挫し、アタリは倒産寸前となる。
アタリは1974年に株式の半分以上をワーナー・コミュニケーションズに売り、その経営参加を認めた。そして1975年に『ポン』だけが遊べる家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』を開発。LSIが値下がりしたことで『オデッセイ』より安価な値付けを実現した。これを百貨店のシアーズが独占販売し、15万台を完売、アタリは一息つくことができた。
アタリにとっての次の一手は、カートリッジ交換式の家庭用ゲーム機を発売すること。それしか企業再生の道はなかった。
ブッシュネルが家庭にTVゲーム機を送り込もうと資金集めに苦しんでいるころ、アタリに出入りしていたのがAppleを創業したスティーブ・ジョブズだった。
1974年、1年半で大学生活に飽きた19歳のジョブズは、当時人気急上昇中のアタリに技術作業員として雇われる。サンダル履きでルンペンのような恰好をし、ろくにシャワーも浴びないから嫌なにおいがする。周囲から疎まれたジョブズは、独り夜間勤務だったという。
あるとき、ジョブズは勤め人でありながら、インドに行くと言い出す。ヒッピーの間で有名な導師に会いにインドに行きたいから、旅費を援助してくれと上司に申し出た。上司はヨーロッパに仕事を作ってやり、旅費を負担してあげた。こうしてジョブズはヨーロッパ経由でインドに旅立つが、その旅は散々だったようだ。1975年早々には帰国しアタリに復職する。
それにしてもアタリとは、どれだけゆるい会社だったのか。アタリの工場で働くのはヒッピーばかりで工場内はマリファナのにおいが立ち込めていたというし、役員会議はいつもジャグジーでわきあいあいとやっていたらしいから、当時のこの会社のゆるゆる感が伝わってくる。
ジョブズの話をいったん置いて、アタリを中心にした70年代のデジタルゲーム業界に話を戻そう。
1976年の初頭には、ゼネラル・インスツルメント社が、ゲーム専用のチップを発売し、この値段が5~6ドルと劇的に安かったから、7社が安価なTVゲームを発売した。さらに8月にはフェアチャイルド・セミコンダクターが、初めてのカラーでカートリッジ交換式のTVゲームを発売し、アタリを脅かした。先ほど、アタリはカートリッジ交換式の家庭用ゲーム機を発売するしかないと書いたが、こうした周囲の動きがアタリを追い込んでいたからだ。
アタリは『Video Computer System』(通称VCS、のちにアタリ2600と名称変更した)を用意していたが、これを完成させる資金がなかった。そのためにアタリは、とうとうワーナー・コミュニケーションズに全株式を売却することでワーナーの完全子会社となって『VCS』製造に踏み切ることにした。ブッシュネルは会長として残り、部下のジョー・キーナンを社長に据えた。
1977年11月に『VCS』は40万台生産され、出荷の時を迎えた。この年のカセット式TVゲームの市場参加社はコレコ、RCA、ナショナル・セミコンダクター、フェアチャイルド社、アライド・レジャーなど多数。各社がクリスマスシーズンを固唾を飲んで待ったが、似たり寄ったりのゲームしかできないことを消費者に見透かされたか、波はやって来なかった。マグナボックスは発売する予定だった『オデッセイ2』の販売を取りやめた。アタリは大量の在庫を抱え、赤字に転落した。ワーナー側で買収の指揮をとったマニー・ジラードは、この事態に青ざめ、なんとかせよとブッシュネルに迫るが、ことごとく意見が対立する。
ジラードは、アタリには広告もマーケティングもない、R&D(研究開発)しかないと、不満をぶちまけた。ブッシュネルは、研究開発費を止めたら会社が弱体化すると抵抗する。いつまでも平行線で、結局ブッシュネルは1978年に解任されアタリを去る。ブッシュネルもキーナンも株を売却して億万長者になっていた。ブッシュネルは他人の金でギャンブルする気になれないと言い、キーナンは株を売ったら前のようになんとかしようという気が失せた、などとうそぶく始末だったから、この成り行きは仕方なかった。
さてこのころ、渋るブッシュネルにアタリ株を売却させたのは前項で紹介したセコイア・キャピタル創業者のドン・バレンタインだった。彼は『ホーム・ポン』に60万ドルの自己資金を投入した男で、会社を始めるときと会社を大きくするときの経営力は違うと考えていた。同じ人間のなかに両方の能力が備わっていることはめったにない、というわけだ。彼はビデオゲームがバーや家庭に入ることを高く評価しアタリに投資したが、経営者としてのブッシュネルの能力には見切りをつけていた。卓見だった、と思う。