三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
英傑群像出張版では、わたしが中国各地で集めた三国志武将の民間伝承の古書から、厳選して文章をまとめて紹介しています。(今回は他からも一部引用)
前回、【袁紹と曹操】二人の繋がりの深さを紹介分析しました。
前回はよく知られている民間伝承を紹介しましたが、今回も彼らに関係する民間伝承をご紹介します!
ちなみに過去たくさん曹操の民間伝承を紹介しています。以下ご参照ください。
●三国志 英傑群像出張版#6-1
●三国志 英傑群像出張版#6-2
●三国志 英傑群像出張版#6-3
●三国志 英傑群像出張版#21-1
●三国志 英傑群像出張版#21-2
その前に、<夏といえば怪談>というわけで、今年も二人の事ではないですが二人に関連しそうな怪奇話?があるので最初に2つご紹介します。
以前紹介した三国志オカルト話はこちら
●三国志 英傑群像出張版#9-1
●三国志 英傑群像出張版#9-2
●三国志 英傑群像出張版#9-3
①【顔良の祟り】
呂城は呉の大将軍呂蒙によって建てられた。
近くの川岸には二つの廟があり、一つは唐の封陽王・郭子義を祀ったもので、もう一つは袁紹の将軍・顔良を祀ったもので共にここにあるのは不可解である。
地元の人々は顔良廟に祈りを捧げに行くが、非常に霊験あらたかである。周囲15里以内に関帝廟があるはずもなく、もし建てられたら大変なことになる。(顔良を関羽が斬ったとされるため)
ある県令がそれを信じないで、顔良祠の祭りの時に実際に見に行き、わざと役者に『三国志』の雑劇を演じさせた。
その結果、風が急に強くなり、葦の小屋の茅葺の屋根が宙に転がり、ねじれて球になり、投げ落とされ、役者の何人かが打ち殺された。
更にその後、半径15里の範囲で疫病が流行し人や動物が死に県令も重病にかかり死にかけた。
<閲微草堂筆記>
②【邪神】
袁紹が冀州を収めた頃、神だというものが現れた。住民は神のために廟を建てた。その後、神はいくつか奇跡を起こした。
曹操がこの地を治めると張郃に命じて廟を潰させようとしたが数万の兵が現れ失敗した。その後、神が廟の移転を曹操に求めた。しかたなく曹操は承諾し新たな楼閣を提供した。
数日後、曹操は近くで狩りをした際、見たこともない子鹿のようなかわいい動物を捕まえた。
その後、「子が帰ってこない」と言う声が楼閣から聞こえ始めた。
曹操は神の正体に気づき楼閣へ数百の犬を放った。馬のような動物が現れると犬たちが噛み殺した。その後、その神は現れなくなった。
<捜神記>
③【曹操の焚書】
伝説によると、建安5年の冬、曹操が官渡の戦いで袁紹を破った後、彼の軍は陽武に近づいた。
当時、陽武は袁紹軍の本営だった。袁軍は逃げるために急いで出発したため、曹操の軍隊は燃やす暇のなかった機密文書をすべて得た。
これらの文書の中には、許都の役人や曹軍の将たちが袁紹に宛てた手紙がたくさんあり、書き手は袁紹に媚びたり、曹操を中傷したりしていた。
ある日、曹操の重臣であった楊修や夏侯惇は、これらの手紙を曹操に差し出し一人一人の名前を調べて殺すべきだと提案した。
曹操は長い間考え込んでこう言った。「あの時、袁紹は強大で私は他人も自分自身も守ることができなかった!」
その後、彼はすべての手紙を焼却させ、この問題を不問に付した。この話が広まると、袁紹と共謀していた軍の官吏や将軍たちはみな感謝し曹操に忠誠を示した。
また、官渡の戦いが始まった後、許都に残っていた荀彧が袁軍の密偵を捕まえた。袁紹と密通していた曹操の官吏から大量の書状を押収したという噂もあった。
荀彧はすぐさま、最前線で戦っていた曹操にこのことを報告する使者を送った。使者が戻ってくると、「丞相からはあなたに炉を作り、彼が戻ってくるのを待ってから対処するようにと言っています」と言った。
これを聞いた荀彧は、曹操は密かに連絡を取り合っていた者たちを炉で焼こうとしたに違いないと考えた。
そこで、彼は部下を送り込み、手紙を書いた者たちを監視させ、職人たちに命じて昼夜を問わず炉を鋳造させた。
官渡で袁紹に勝利した曹操は許都に戻り、丞相府で成功を祝う宴を催し、密かに自分と通じていた役人を特別に招待した。
荀彧は曹操がこの者たちを裁判にかけ、朝廷に警告しようとしていると考え斧手に命じて密偵を引き釣り出して密書を読み上げさせた。
これを聞いた役人たちは皆、自分の命が危ないと思い体をふるわせた。
荀彧は銅の炉の設置を命じ、曹操の言葉を待たずに、「敵に通じた者はすべて焼き払え!」と命じた。斧使いが彼らを捕まえようとしたとき、曹操は「無礼なことをするな!」と止めるように命じた。
これには荀彧も困惑した。曹操は感慨深げにため息をついて言った。「あの時、袁紹は強大で私は他人も自分自身も守ることができなかった!」と前と同じことを言って、密書を炉に投げ込んで燃やした。
これを見た役人たちはひざまずいて、自分たちを殺さなかった宰相に感謝し、曹操への忠誠を誓った。曹操はその後、前に出てきて密偵を解きこう言った。「戻って袁紹に、曹孟徳は両軍の戦いでいかなる使者の首もはねないと伝えよ。」と。
密偵は頭を下げ、「丞相、あなたの寛大さと親切を決して忘れません」と言った。
④【故郷への旅】
官渡の戦いの後、すでに秋も更けていたが、曹操は数日間連続で軍を率いて、鞍から降りることなく、馬を止めることなく、許都に向かって急速に進軍していた。
でこぼこ道と休息不足のため、行軍の速度は日に日に遅くなり、曹操自身も疲れを感じていた。
ある日、曹操が馬をゆっくり走らせていると、馬の前で何人かの兵士が譙県訛り(曹操の故郷)でひそひそ話しているのが聞こえた。
曹操は彼らに親しみを感じ、一歩前に出て彼らと話をした。
「皆は譙県から来たのか?」
「はい、閣下」
「故郷を離れてどれくらいになる?」
「彼は5年、私は10年近くになります」
「故郷からの便りは?」
「いえ、あなたについて行ってから、あちこち旅をして故郷と連絡が取れなくなってしまいました」
「ああ、それはさぞかし故郷が恋しいでしょう?」
「それは......。死後、魂は故郷に帰れると今みんなそう言っています。」
曹操は虚しくなり質問をやめた。私や兵士たちは祖国を離れてから何年も、北と南で戦ってきた。故郷へ帰らせてあげたい。
建安6年9月、曹操は劉備の汝南への侵攻を命じた。劉備が逃げると曹操はその後、軍を北上させると譙県を通過した。
たまたま彼は故郷に帰りたいという願いを叶えることができた。
城に到着すると、曹操は軍隊に休養を命じ、長い間見失っていた故郷をじっくりと堪能することができるようにした。
街に入って、曹操は興奮しながら自分の家に着いた。一見したところ、故郷は雑草が生い茂り、瓦礫の山になっており、子供の頃よく登った家の前の大きな楡の木も枯れてしまっていた。
彼は丸一日、街を東西南北に歩き回ったが、相変わらず訛りは聞こえてくるものの、知り合いに会うことはなかった。
平日は人通りも少なく、市場も冷え込んでいた。何人かの人を見つけては、子供の頃に一緒に狩りをした仲間のことを尋ねたが、首を横に振るばかりで、「知らない」と言う人もいれば、「とっくにいなくなった」と言う人もいた。
曹操がため息をついていると、ふと、先日の行軍の途中で出会った譙県の兵士たちの姿が目に入った。
彼らは皆、泣いていたので、前に出て聞いてみると、その兵士たちは「戦場にいるときは祖国を夢見ていたが、故郷に戻ると夢は悪夢に変わり、幸福の代わりに限りない悲しみが残った。」と言う。
彼らの家族は戦争と混乱で荒廃し、両親は悲劇的な死を遂げ、兄弟は離ればなれになり、妻は寒さと落胆で死に、子供たちは悲劇的な死を遂げたことがわかった。
曹操は失意の中、兵営に戻ると、「私は暴政を一掃するために軍を起こしたが、故郷のほとんどすべての人々が死ぬのを見たくなかった。私は一日田舎を歩き回ったが、一人の知人にも会わなかった。私の蜂起以来、子孫を残さずに死んだ兵士・将兵は、子孫として彼らの親族を見つけ、彼らに田畑を分け与え、政府は耕作牛を割り当て、学校を設立し、教師に彼らの教育を依頼する。死んだ兵士のために祠を建て、子孫が先祖を祀ることができるようにし、100年後、彼らがあまり気の毒に思われないようにする。」と命令を出した。
軍命が発せられた後、曹操は心の中で少し慰められた気がした。
ふと故郷を離れる前に、彼は若い頃に訪れた橋玄のことを思い出した。部下を派遣して調べさせたが、何年も前に彼は亡くなっていた。
曹操はため息をつきながら、長い賛辞を送り、彼の評価と推薦に感謝し、部下を派遣し献上品を持って、盛大に貢ぎ物をした。
出発の日、曹操は軍の鞍にまたがり、城の通りに立っていた。角笛の音が兵士の一団を促し、市外に進軍させた。
曹操は思いにふけり、去るに忍びず部下に何度も言われて初めて馬を引き返した。
道すがら、曹操はたびたび振り返り、ぼんやりとした故郷の輪郭を見つめながら、詩の一節【却東西門行】をそっと暗唱した……。
まとめ
いかがだったでしょうか?
①の「顔良の祟り」の話は、呉の国(呂城は江蘇省丹陽市あたり)に顔良廟があったというのは確かに不可解。子孫が移り住んで建てたのでしょうか?
祟られたのは、関羽に顔良が斬られるシーンの演劇でも上演したのでしょうか?! それとも関羽が話の中で登場しただけで祟られたのでしょうか?
関羽も化けて出るので、化けて出る者同士で再バトルさせて見たいと思ってしまいました。関羽と犬猿の仲の呂蒙の城も近いというのもあり、祟ったのは顔良ではなく呂蒙では? とも深読みしてしまいました。
②の邪神の話は、淫祠邪教を禁止させる方針の曹操らしいお話。元そこを統治していた袁紹は宗教に寛大だったのかもしれません。果たして鹿のような動物ってなんだったのでしょうか。
③正史三国志や三国志演義で「曹操が袁紹方に残った曹操側からの文章を見ずに焼いた」という記述があります。
それと共通する民間伝承です。ただ、荀彧が色々と絡むのはこの民間伝承だけの話で興味深いです。
④の話は「官渡の戦い」後の逸話。書かれていませんが友人袁紹を倒したあとの虚しさもまたあったのであろうなあと想像し選びました。
前から思っていましたが、(以下知らない人すいません。)曹操と袁紹の関係って、ガンダムでシャアとガルマの関係に似てはいませんか?
親友だとおもっていたシャアにうまく利用され、死ぬことになる坊やのガルマ。袁紹も曹操は親友だと思っていたらうまく利用され続け、最後はやられる事になりました。
どちらにしても軍事力的に圧倒的に有利だった「官渡の戦い」で袁紹が順当に勝っていたら、三国時代は来なかったでしょう。曹操の名声もこれほどではなかったのかもしれません。
歴史は負けると悪く言われる世界なので全て鵜呑みにはできません。今後、袁紹については評価が見直される可能性がある気がしています。
それでは、次回もお楽しみに!
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コラム未公開! 関羽の民間伝承パネル展示中
春の三国志会で初公開した、本コラムで未公開の関羽の民間伝承が掲載されているパネルですが、こちらは引き続き展示を継続しております。
7月末位までは展示しておくつもりですので、KOBE鉄人三国志ギャラリーのお近くに来られた際は、ぜひお立ち寄りくださいね!
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!