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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第41回
前回は邦画の売れ筋が実写からアニメへと変遷してきた様子を紹介したが、洋画はどうか? 日本における興業収入の暦年首位をたどると、2014年には『アナと雪の女王』、2015年には『ジュラシック・ワールド』、『ベイマックス』のワンツーフィニッシュとなるが、2016年には『君の名は。』が興収250億円で、2位の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の興収116億円を圧倒的に引き離す。以降はアニメに押され気味の形だ。
2019年には『天気の子』、2020年には『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』、2021年には『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、2022年には『ONE PIECE FILM RED』、『すずめの戸締まり』、『劇場版 呪術廻戦 0』がトップ3を独占。
2023年は『THE FIRST SLUM DANK』、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』、『名探偵コナン黒鉄の魚影』、『君たちはどう生きるか』がトップに名を連ねた。『マリオ』は洋画の扱いだが、任天堂IPの映画であり日米合作だ。あの任天堂がゲームからアニメへのIP戦略に乗り出したと業界を騒がせた。
2013年に宮崎駿が引退宣言したとき、これを大真面目に受け取ったぼくたちは日本のアニメ界は大きな才能を失うのかと残念に思ったが、それはいい意味で裏切られ、『君たちはどう生きるか』で見事に宮崎は返り咲いた。
さらに日本のアニメ界は、庵野秀明、新海誠、細田守、片渕須直、山田尚子といった世界に通用する才能を次々に送り出すことになった。あえて、任天堂の宮本茂“アニメプロデューサー”の名前も加えておきたい。
こんなふうに、日本の映画興行は邦画も洋画も、アニメ人気に飲み込まれることになった。もちろん映画の世界はひとつのヒットで傾向が変わることがあるからあまり断定はしないほうがいいかもしれないが。
さて、“才能が次々に生み出される土壌”という意味では、アニメよりむしろマンガのほうが広大だったし、そもそもマンガがもとになってアニメ化されるケースが多いのだから、オリジンとしてのマンガの優位性は強固にあった。
『週刊少年ジャンプ』で2008年から4年間連載されていた『バクマン。』(原作原案・大場つぐみ、作画・小畑健、集英社)は、2人の少年がタッグを組んでマンガ家を目指す熱血マンガだ。絵の上手な少年(亡くなったおじさんがマンガ家だった)と、成績優秀で物語作りに長けた少年の2人が志を立て、集英社に原稿を持ち込み採用されるところから物語が始まる。
マンガ家同士の切磋琢磨あり、友情、恋愛ありの成長物語だ。ネームが多いと感じたが、ぼくは夢中になって読んだ。『少年ジャンプ』の編集者が実名で登場し、有名なアンケートシステムにより人気を競うところ、ネームのノウハウ、連載が始まった際のアシスタントの手配など、マンガづくりの現場がリアルに描かれている。
本来であれば静的なマンガ家という職業を、まるでスポーツものや格闘技もののようにハラハラドキドキの展開で見せて人気を得て、テレビアニメ化、劇場映画化もされた。登場人物が使っている携帯がまだガラケーの時代で、紙の雑誌が最後の光芒を残し西の空に消え入る直前の時代の物語だった。『バクマン。』の世界はしかし、大手出版社とそこに集うエリートマンガ家のみがなしえた頂上の物語で、ぼくたち中堅には追い付けない世界でもあった。
日本では、戦後に週刊誌ブームがあった。
1956年に『週刊新潮』が創刊され、1958年には『週刊明星』、『週刊女性自身』、『週刊文春』など十指に余る週刊誌が創刊され、大衆文化が開花した。週刊少年マンガ誌の嚆矢である『週刊少年マガジン』、『少年サンデー』の創刊は、いまの上皇陛下、上皇后がご成婚された1959年で、その当時学齢期にあった団塊の世代がマンガ市場を急成長させた。
これ以降の出版業界は“雑高書低”と言われ、雑誌を多く抱える講談社、集英社、小学館の大手出版社からトーハン、日販の大手取次、紀伊国屋書店を筆頭とする大型書店で形成されるヒエラルキーが厳然と存在した。大手出版社は取次との取引条件も別格で、流通も大手書店に有利なパターン配本で、小さな書籍出版社、小さな書店は不利に甘んじたが、それでも業界全体は成長した。
マンガ週刊誌では、講談社の『少年マガジン』、小学館の『少年サンデー』に加えて集英社の『少年ジャンプ』、秋田書店の『少年チャンピオン』が4大誌で、そこに付け入るスキはなくて、少年誌に限らず少女マンガ誌、レディースコミック誌、成年男性誌に至るまでもっぱら小集講(小学館・集英社・講談社)の独壇場となった。
流通だけでなく製造でも大量販売のための大量製造の仕組みができあがっていた。“印刷製本一貫機”は、オフセット輪転印刷機にロール紙をセットしたあとは印刷、製本、カバー帯掛け、売り上げカードの投げ込み、小口梱包までが自動で上がってくる仕組みだ。この印刷機械はB6判ないしは新書版で、本文が一折16ページ×12折=192ページに最適化されていた。
印刷会社は出版社に対してこの仕様に合わせて、定期的に印刷製本をすれば、劇的にコストを下げることができるとアピールした。マンガ家の価値は、マンガの内容が面白くてアンケートで上位が取れる作家であることに間違いないが、週刊マンガ誌では、それ以前に毎週毎週8ページ、16ページ、24ページと、休むことなく一定量原稿を仕上げることができて、その結果定期的にコミックスを発刊できる作家が、連載を獲得できるのだ。
大手出版社は、この条件に適った作家のもとに作業場を手配し、アシスタントを供給した。毎週よどみなく原稿をあげることはもとより、巻を重ねて人気を保つというのは、常人の技ではない。こんなことができるのは、大手出版社の新人賞や持ち込みで大量に集まる才能のうちの一握りだ。一握りの才能を生み出すためには広大な予備軍が存在しなければならない。マンガ雑誌市場に参入しようとしても、作家がなかなか集まらず、後発出版社は創刊に踏み切れなかった。
この”産業障壁”は、なかなか越えがたかったが、“オタク”が登場し、それが一大勢力となった1980年代半ばから、オタク向けマンガ誌として徳間書店の『月刊少年キャプテン』(1985年)、角川書店『月刊コミックコンプ』(1988年)、エニックス『月刊少年ガンガン』(1991年)、角川書店『月刊少年エース』(1994年)が生まれた。いずれも月刊で、才能を求めて自社の新人賞を設定し、それでも足りないからアニメやゲームの業界、コミケなどから才能を発掘するしかなかった。
ぼくたち後発月刊誌群は、マンガの裾野を広げることには貢献したが、やっぱり頂点は週刊少年マンガ誌で、ぼくにとっては憧憬の念を抱く対象だった。
東日本大震災のあった2011年の12月に、コミック出版社の会主催、経済産業省の後援で“コミックフェスティバル in 東北”というイベントが仙台市で開催され、ぼくはその実行委員長を仰せつかった。イベントには、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の安彦良和、『ドラゴン桜』の三田紀房、『傷だらけの天使たち』の喜国雅彦、『山と食欲と私』の信濃川日出雄、『イムリ』の三宅乱丈などの東北にゆかりのあるマンガ家と担当編集者が登壇する講演会があった。
彼らの講演を聞きながらぼくが一番感じたことは、マンガ大手3社が築いてきた、才能を発掘し育てる仕組みの歴史の厚さと重みのようなものだった。それについてここで描写するのは難しい。大手で育ったマンガ家に対しては、その頭の良さに驚嘆した。
マンガ家を志す人のなかには、冷静に、ヒットすれば収入が幾何級数的に増える可能性のある職業として、マンガ家を選択する人がいる、ということを知った。だから作品作りにも人気を得るためのメソッドがある。そういう頭のいい人は、当然大手のブランド力のある雑誌に投稿する、ということを再認識した。
講演に話を戻すと、いまでも印象に残っているのは、修業時代を語る喜国雅彦が、若いころ自分はただただ女の子の脚を描くのが大好きの“脚フェチ”で、ひたすら女の子の脚を描いていたら編集部に拾われ、これまで言われるままにマンガを描いてきた、みたいな発言で会場を笑わせたことだ。そして映画ばかり観ていた、映画を観終わったらチケットの半券を持って出版社を訪ね、担当編集者に渡すと、黙って鑑賞代を払ってくれた、という。
担当は自分が映画を見たことにして精算したのだろうか。2025年現在のセンスだと怒られることかもしれないが、平成昭和のころにはよくあったであろう。売り出し前のマンガ家と担当の関係がうかがえる、いい話だと思った。
2019年には『天気の子』、2020年には『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』、2021年には『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、2022年には『ONE PIECE FILM RED』、『すずめの戸締まり』、『劇場版 呪術廻戦 0』がトップ3を独占。
2023年は『THE FIRST SLUM DANK』、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』、『名探偵コナン黒鉄の魚影』、『君たちはどう生きるか』がトップに名を連ねた。『マリオ』は洋画の扱いだが、任天堂IPの映画であり日米合作だ。あの任天堂がゲームからアニメへのIP戦略に乗り出したと業界を騒がせた。
2013年に宮崎駿が引退宣言したとき、これを大真面目に受け取ったぼくたちは日本のアニメ界は大きな才能を失うのかと残念に思ったが、それはいい意味で裏切られ、『君たちはどう生きるか』で見事に宮崎は返り咲いた。
さらに日本のアニメ界は、庵野秀明、新海誠、細田守、片渕須直、山田尚子といった世界に通用する才能を次々に送り出すことになった。あえて、任天堂の宮本茂“アニメプロデューサー”の名前も加えておきたい。
こんなふうに、日本の映画興行は邦画も洋画も、アニメ人気に飲み込まれることになった。もちろん映画の世界はひとつのヒットで傾向が変わることがあるからあまり断定はしないほうがいいかもしれないが。
さて、“才能が次々に生み出される土壌”という意味では、アニメよりむしろマンガのほうが広大だったし、そもそもマンガがもとになってアニメ化されるケースが多いのだから、オリジンとしてのマンガの優位性は強固にあった。
『週刊少年ジャンプ』で2008年から4年間連載されていた『バクマン。』(原作原案・大場つぐみ、作画・小畑健、集英社)は、2人の少年がタッグを組んでマンガ家を目指す熱血マンガだ。絵の上手な少年(亡くなったおじさんがマンガ家だった)と、成績優秀で物語作りに長けた少年の2人が志を立て、集英社に原稿を持ち込み採用されるところから物語が始まる。
マンガ家同士の切磋琢磨あり、友情、恋愛ありの成長物語だ。ネームが多いと感じたが、ぼくは夢中になって読んだ。『少年ジャンプ』の編集者が実名で登場し、有名なアンケートシステムにより人気を競うところ、ネームのノウハウ、連載が始まった際のアシスタントの手配など、マンガづくりの現場がリアルに描かれている。
本来であれば静的なマンガ家という職業を、まるでスポーツものや格闘技もののようにハラハラドキドキの展開で見せて人気を得て、テレビアニメ化、劇場映画化もされた。登場人物が使っている携帯がまだガラケーの時代で、紙の雑誌が最後の光芒を残し西の空に消え入る直前の時代の物語だった。『バクマン。』の世界はしかし、大手出版社とそこに集うエリートマンガ家のみがなしえた頂上の物語で、ぼくたち中堅には追い付けない世界でもあった。
日本では、戦後に週刊誌ブームがあった。
1956年に『週刊新潮』が創刊され、1958年には『週刊明星』、『週刊女性自身』、『週刊文春』など十指に余る週刊誌が創刊され、大衆文化が開花した。週刊少年マンガ誌の嚆矢である『週刊少年マガジン』、『少年サンデー』の創刊は、いまの上皇陛下、上皇后がご成婚された1959年で、その当時学齢期にあった団塊の世代がマンガ市場を急成長させた。
これ以降の出版業界は“雑高書低”と言われ、雑誌を多く抱える講談社、集英社、小学館の大手出版社からトーハン、日販の大手取次、紀伊国屋書店を筆頭とする大型書店で形成されるヒエラルキーが厳然と存在した。大手出版社は取次との取引条件も別格で、流通も大手書店に有利なパターン配本で、小さな書籍出版社、小さな書店は不利に甘んじたが、それでも業界全体は成長した。
マンガ週刊誌では、講談社の『少年マガジン』、小学館の『少年サンデー』に加えて集英社の『少年ジャンプ』、秋田書店の『少年チャンピオン』が4大誌で、そこに付け入るスキはなくて、少年誌に限らず少女マンガ誌、レディースコミック誌、成年男性誌に至るまでもっぱら小集講(小学館・集英社・講談社)の独壇場となった。
流通だけでなく製造でも大量販売のための大量製造の仕組みができあがっていた。“印刷製本一貫機”は、オフセット輪転印刷機にロール紙をセットしたあとは印刷、製本、カバー帯掛け、売り上げカードの投げ込み、小口梱包までが自動で上がってくる仕組みだ。この印刷機械はB6判ないしは新書版で、本文が一折16ページ×12折=192ページに最適化されていた。
印刷会社は出版社に対してこの仕様に合わせて、定期的に印刷製本をすれば、劇的にコストを下げることができるとアピールした。マンガ家の価値は、マンガの内容が面白くてアンケートで上位が取れる作家であることに間違いないが、週刊マンガ誌では、それ以前に毎週毎週8ページ、16ページ、24ページと、休むことなく一定量原稿を仕上げることができて、その結果定期的にコミックスを発刊できる作家が、連載を獲得できるのだ。
大手出版社は、この条件に適った作家のもとに作業場を手配し、アシスタントを供給した。毎週よどみなく原稿をあげることはもとより、巻を重ねて人気を保つというのは、常人の技ではない。こんなことができるのは、大手出版社の新人賞や持ち込みで大量に集まる才能のうちの一握りだ。一握りの才能を生み出すためには広大な予備軍が存在しなければならない。マンガ雑誌市場に参入しようとしても、作家がなかなか集まらず、後発出版社は創刊に踏み切れなかった。
この”産業障壁”は、なかなか越えがたかったが、“オタク”が登場し、それが一大勢力となった1980年代半ばから、オタク向けマンガ誌として徳間書店の『月刊少年キャプテン』(1985年)、角川書店『月刊コミックコンプ』(1988年)、エニックス『月刊少年ガンガン』(1991年)、角川書店『月刊少年エース』(1994年)が生まれた。いずれも月刊で、才能を求めて自社の新人賞を設定し、それでも足りないからアニメやゲームの業界、コミケなどから才能を発掘するしかなかった。
ぼくたち後発月刊誌群は、マンガの裾野を広げることには貢献したが、やっぱり頂点は週刊少年マンガ誌で、ぼくにとっては憧憬の念を抱く対象だった。
東日本大震災のあった2011年の12月に、コミック出版社の会主催、経済産業省の後援で“コミックフェスティバル in 東北”というイベントが仙台市で開催され、ぼくはその実行委員長を仰せつかった。イベントには、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の安彦良和、『ドラゴン桜』の三田紀房、『傷だらけの天使たち』の喜国雅彦、『山と食欲と私』の信濃川日出雄、『イムリ』の三宅乱丈などの東北にゆかりのあるマンガ家と担当編集者が登壇する講演会があった。
彼らの講演を聞きながらぼくが一番感じたことは、マンガ大手3社が築いてきた、才能を発掘し育てる仕組みの歴史の厚さと重みのようなものだった。それについてここで描写するのは難しい。大手で育ったマンガ家に対しては、その頭の良さに驚嘆した。
マンガ家を志す人のなかには、冷静に、ヒットすれば収入が幾何級数的に増える可能性のある職業として、マンガ家を選択する人がいる、ということを知った。だから作品作りにも人気を得るためのメソッドがある。そういう頭のいい人は、当然大手のブランド力のある雑誌に投稿する、ということを再認識した。
講演に話を戻すと、いまでも印象に残っているのは、修業時代を語る喜国雅彦が、若いころ自分はただただ女の子の脚を描くのが大好きの“脚フェチ”で、ひたすら女の子の脚を描いていたら編集部に拾われ、これまで言われるままにマンガを描いてきた、みたいな発言で会場を笑わせたことだ。そして映画ばかり観ていた、映画を観終わったらチケットの半券を持って出版社を訪ね、担当編集者に渡すと、黙って鑑賞代を払ってくれた、という。
担当は自分が映画を見たことにして精算したのだろうか。2025年現在のセンスだと怒られることかもしれないが、平成昭和のころにはよくあったであろう。売り出し前のマンガ家と担当の関係がうかがえる、いい話だと思った。